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静かな女 ― 恋が執着に変わるまで ―第5章

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第五章 結婚すれば変わると思っていた

私は、フィリピンで経営していたKTVを、最後まできちんと閉めることができなかった。

閉店すると正式に決めたわけでもない。

スタッフ全員を集め、理由を説明したわけでもない。

店の看板を下ろし、区切りをつけたわけでもなかった。

気がつけば、私は店へ行かなくなっていた。

連絡を返す回数が減り、経営のことを考える時間も少なくなっていた。

売上の確認。

スタッフとの話し合い。

お客様への対応。

本来、経営者である私がやらなければならないことを、私は少しずつ後回しにしていった。

その結果、店は営業を続ける力を失っていった。

私は、KTVを閉めることなく閉めた。

今振り返れば、それは店だけの問題ではなかった。

彼女と付き合い始めてから、私は仕事というものを少しずつ邪険に扱うようになっていた。

以前の私は、何か問題が起きればすぐに現場へ向かった。

売上が悪ければ原因を考えた。

スタッフ同士が揉めれば間に入った。

お客様から苦情があれば、自分の責任として受け止めた。

仕事は、私の生活の中心だった。

大変なことは多かったが、仕事をしている自分に誇りも持っていた。

しかし、彼女と付き合い始めてから、その優先順位が変わっていった。

仕事よりも、彼女の機嫌。

店の問題よりも、彼女との喧嘩。

スタッフからの連絡よりも、彼女からの電話。

私は、何かあるたびに仕事を止め、彼女の感情に向き合うようになった。

向き合っていたというより、振り回されていたのかもしれない。

彼女が怒れば、仕事どころではなくなった。

電話に出なければ、何度も着信が入る。

少し返事が遅れただけで、誰といるのかと疑われる。

店へ行けば、女性スタッフとの関係を問い詰められる。

私は、仕事を続けることよりも、喧嘩を起こさないことを優先するようになった。

最初は、一日だけだった。

今日は店へ行くのをやめよう。

彼女が落ち着いてから行けばいい。

そう考えた。

次は二日になった。

その次は、一週間のうち半分しか店へ行かなくなった。

私は自分に言い訳をしていた。

自分がいなくても店は回る。

スタッフに任せればいい。

少しくらい休んでも問題はない。

しかし、経営者が現場から離れれば、店の空気は変わる。

小さな乱れが増え、それを直す人間がいなくなる。

売上が落ちても、誰も本気で責任を負わない。

私が作った店なのに、私は自分からその店を手放すように離れていった。

そして、彼女との関係に、より多くの時間を使うようになった。

彼女を何度か日本へ呼んだ。

短い滞在を重ねながら、日本での生活を見せた。

食事をした。

買い物へ行った。

街を歩いた。

私の知人に会わせることもあった。

彼女が日本で笑っている姿を見ると、私は安心した。

フィリピンにいる時とは違って見えた。

日本へ来れば、彼女も穏やかになるのではないか。

生活が安定すれば、不安も嫉妬も消えるのではないか。

私はそう期待した。

彼女も、日本での生活を気に入っているように見えた。

清潔な街。

便利な交通機関。

安全な生活。

何でも買える店。

私は、彼女が日本で暮らす未来を想像した。

ここなら大丈夫だ。

フィリピンで起きたことは、環境が悪かったからだ。

離れて暮らしていたから、疑いや不安が生まれた。

毎日一緒にいれば、彼女も安心する。

私はそう考えた。

本当は、何度も兆候があった。

日本へ来ている間にも、些細なことで表情が変わることがあった。

私が女性店員と話す。

知り合いの女性から連絡が来る。

少し電話に出るのが遅れる。

それだけで、彼女は不機嫌になることがあった。

だが私は、それを深刻には考えなかった。

慣れない国に来て不安なのだろう。

言葉が分からないから心配なのだろう。

結婚すれば安心する。

私は、何度も同じ結論に逃げ込んだ。

やがて、私たちは結婚する段取りを進めた。

必要な書類を集めた。

役所へ行った。

手続きの方法を調べた。

日本で暮らすための準備を、一つずつ進めていった。

手続きが進むたび、私は幸せに近づいていると思った。

ここまで来れば大丈夫だ。

夫婦になれば、彼女はもう離れない。

正式な家族になれば、疑う必要もなくなる。

恋人ではなく妻になることで、彼女の心も落ち着く。

私は結婚というものに、あまりにも大きな期待をかけていた。

結婚は、人を変えるものではない。

本来は、すでにある関係を形にするものだ。

しかし私は、壊れかけた関係を結婚によって修復しようとしていた。

問題を解決してから結婚するのではなく、結婚すれば問題が解決すると考えていた。

今思えば、それが大きな間違いだった。

それでも、その時の私は希望に満ちていた。

正式に結婚が決まった日、私はほっとした。

ようやくここまで来た。

これまでの喧嘩も、苦しみも、店を失ったことも、すべて無駄ではなかった。

この結婚へたどり着くために必要だったのだ。

私は、そう思おうとしていた。

彼女も嬉しそうだった。

未来の話をした。

日本でどんな生活をしたいか。

どんな家具を置きたいか。

どこへ遊びに行きたいか。

彼女が楽しそうに話す姿を見て、私は安心した。

この笑顔がずっと続く。

夫婦になれば、普通の家庭を作れる。

私は心からそう信じた。

結婚した時までは、確かに良かった。

二人で写真を撮った。

笑顔で並んだ。

周囲から祝福された。

私は、自分の人生をやり直せると思っていた。

失ったものを、これから取り戻していけると思っていた。

そして、彼女は日本へ来た。

空港で彼女を迎えた時、私は大きな達成感を感じていた。

これでもう遠距離ではない。

毎日一緒にいられる。

電話に出られないことで疑われることもない。

どこにいるかを説明する必要もない。

同じ家で暮らせば、すべて分かってもらえる。

私は、彼女の荷物を持ちながら、新しい生活を想像していた。

最初の頃は、穏やかだった。

二人で買い物へ行った。

食事を作った。

必要な生活用品をそろえた。

彼女に日本の生活を教えた。

電車の乗り方。

店での買い物。

ごみの分別。

近所での過ごし方。

私は、彼女が日本で困らないように、できるだけ世話をした。

彼女も、最初は素直に聞いていた。

家の中には笑い声があった。

私は、ようやく普通の幸せを手に入れたと思っていた。

しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。

日本へ来てから、二か月もしないうちに、以前と似たような喧嘩が始まった。

きっかけは、いつも小さなことだった。

私が電話を見ていた。

帰宅が予定より遅れた。

女性から仕事の連絡が来た。

彼女の質問に、すぐ答えなかった。

それだけで、彼女の表情が変わった。

声が強くなる。

何度説明しても納得しない。

同じ質問を何度も繰り返す。

私は、フィリピンにいた時と同じ感覚を思い出した。

また始まった。

日本へ来れば変わると思っていた。

結婚すれば変わると思っていた。

だが、場所が変わっても、関係は変わらなかった。

むしろ、毎日同じ家にいることで、逃げ場がなくなっていった。

彼女が怒ると、感情を抑えられなくなることがあった。

声は大きくなり、物に当たる。

手に持っていたものを投げる。

扉を強く閉める。

周囲の目を気にせず、外でも声を荒らげる。

私は、そのたびに落ち着かせようとした。

「ここは日本だから」

「近所の人に迷惑がかかる」

「少し静かに話そう」

しかし、怒っている彼女には届かなかった。

その瞬間の感情が、すべてだった。

自分が怒っている。

自分が傷ついた。

だから、何をしても許される。

少なくとも、私にはそう見えた。

彼女は、怒ると周囲が見えなくなった。

家の中であっても、外であっても関係なかった。

誰かが見ているか。

誰かに迷惑がかかるか。

近所に声が聞こえるか。

そういうことは、怒りの前では重要ではないようだった。

私は、その姿を見て少しずつ気づき始めた。

これは、文化の違いだけではない。

言葉が通じないからでもない。

日本に慣れていないからでもない。

彼女自身が、怒りとどう向き合うかという問題だった。

しかし、それでも私はすぐには諦めなかった。

まだ日本に来たばかりだから。

生活に慣れていないから。

家族や友人と離れて寂しいから。

私は彼女をかばう理由を探し続けた。

同時に、自分自身にも言い聞かせた。

ここまで来たのだから、簡単に終わらせてはいけない。

結婚したのだから、我慢しなければいけない。

夫婦なら、乗り越えなければいけない。

私は、結婚を決めた自分の選択が間違っていたと認めたくなかった。

店まで失った。

多くの時間とお金を使った。

周囲の反対も押し切った。

それなのに、二か月で終わったとなれば、自分のすべてが否定されるように感じた。

だから私は耐えた。

謝る必要がないことでも謝った。

彼女が怒らないように、言葉を選んだ。

仕事の連絡まで隠すようになった。

隠し事があるからではない。

見られれば喧嘩になるからだった。

私はまた、自分の生活を彼女の感情に合わせ始めていた。

仕事を邪険にした。

店を失った。

それでも私は、彼女との生活を選んだ。

なのに、結婚しても何も変わらなかった。

むしろ私は、以前よりも自由を失っていた。

同じ家に住みながら、常に緊張していた。

今日は何で怒るのか。

どの言葉がきっかけになるのか。

電話を見られたら、何を疑われるのか。

家は本来、休む場所だった。

しかし私にとって家は、少しずつ気を抜けない場所へ変わっていった。

それでも外から見れば、私たちは夫婦だった。

一緒に暮らし、同じ家へ帰る。

写真を撮れば、普通の夫婦に見えた。

だが、その内側では、すでに大きな亀裂が入っていた。

私は結婚すれば変わると思っていた。

彼女が変わると思っていた。

関係が変わると思っていた。

しかし、変わっていたのは私のほうだった。

仕事を大切にしていた私はいなくなっていた。

自分の判断で動いていた私はいなくなっていた。

私は、彼女を怒らせないために生きる人間になっていた。

そして、ようやく気づき始めていた。

結婚は、問題を消してはくれない。

むしろ、隠れていた問題を、毎日の生活の中で何度も見せつける。

フィリピンで起きていたことは、過去ではなかった。

日本へ場所を移しただけだった。

私が「新しい人生の始まり」だと思っていた結婚は、わずか二か月も経たないうちに、終わりへ向かって動き始めていた。

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