プロローグ 静かな女
あの女に出会わなければ、俺の人生は違っていた。
今でも、ふとした瞬間にそう思う。
夜明け前の薄暗い部屋で目が覚めた時。
誰もいない事務所で、古いパソコンの電源を入れた時。
財布を開いた時。
誰かのスマートフォンから、聞き慣れない女の笑い声が漏れた時。
記憶は、こちらの都合などお構いなしに戻ってくる。
彼女の名前は、レイナ。
出会った頃のレイナは、とても静かな女だった。
大きな声で笑うこともなく、人の輪の中心に立つこともなく、いつも少しだけ離れた場所で微笑んでいた。
その控えめな笑顔に、俺は惹かれた。
いや、今思えば、惹かれたというより、騙されたのかもしれない。
彼女は弱く見えた。
守ってあげなければいけない女に見えた。
だが本当は違った。
弱かったのは俺のほうだった。
寂しさと欲と見栄と、男としてのつまらない自尊心。
その全部を、彼女は静かに見抜いていたのかもしれない。
そして俺は、気づかないうちに人生の階段を一段ずつ降りていった。
恋だと思っていたものは、いつの間にか執着になった。
愛だと思っていたものは、支配と依存に変わっていた。
仕事を失い、信用を失い、友人を失い、最後には自分が何者だったのかさえ分からなくなった。
人は、本当に壊れる時、大きな音など立てない。
静かに壊れていく。
毎日少しずつ、心の中の何かが削られていく。
そしてある朝、鏡の中の自分を見て気づく。
もう、元の自分ではないのだと。
これは、一人の男が静かな女に出会い、恋に落ち、執着し、人生を失いかけるまでの物語だ。
そして同時に、失ったものの中から、もう一度自分を拾い集める物語でもある。
すべては、あの夜から始まった。
まだ街にマスク姿の人々が溢れ、誰もが不安を抱えて生きていた頃。
俺は、日本の片隅にお店で、レイナと出会った。

第一章 運命だと思った出会い
2020年。
世界中がコロナという見えない恐怖に包まれていた。
街から人が消え、飲食店は営業時間を短縮し、人と人との距離が当たり前になった時代。
誰もが「明日はどうなるんだろう」と不安を抱えながら生きていた。
俺も、その一人だった。
仕事は順調だった。
生活にも困ってはいなかった。
だが、心のどこかにはいつも埋められない寂しさがあった。
そんなある日の夜。
仕事帰りにふらっと立ち寄ったお店で、一人の女性と出会った。
彼女の名前はレイナ。
黒く長い髪。
透き通るような肌。
派手な化粧ではなく、どちらかと言えばフィリピン現地から来た素朴な雰囲気だった。
店の中でも騒ぐことはなく、静かに笑い、人の話をよく聞く女性だった。
俺は一目で惹かれた。
美人ではない。
その静かな空気に惹かれたのだ。
その日から俺は店へ通うようになった。
最初の頃、レイナは俺を特別扱いすることはなかった。
仕事だから笑う。
仕事だから話す。
そんな距離感だった。
それでも俺は会いに行った。
一度会えれば嬉しかった。
少し話せれば満足だった。
周りの友人は笑った。
「そんなに通っても無理だよ。」
「営業なんだから。」
そう言われても気にならなかった。
俺は、自分だけは違うと思っていた。
今思えば、それが恋の怖さだった。
人は、自分だけは特別だと信じたくなる。
だから冷静な判断ができなくなる。
数か月が過ぎた頃だった。
レイナの態度が少しずつ変わり始めた。
店以外でも連絡をくれるようになった。
仕事が終わると電話が来る。
休日に会うようになる。
他愛もない話で笑い合う時間が増えていった。
俺は嬉しかった。
「やっと心を開いてくれた。」
そう思っていた。
二人は自然と恋人になった。
一緒に食事をする。
映画を見る。
海へ行く。
夜景を見ながら将来の話をする。
どこにでもいる普通の恋人だった。
レイナは穏やかだった。
怒ることも少なく、いつも俺の話を静かに聞いてくれた。
だから俺は信じた。
「この女性となら幸せになれる。」
そう、本気で思っていた。
しかし、人は見たいものしか見ない。
恋をすると、違和感を「気のせい」で片付けてしまう。
レイナにも、小さな違和感はあった。
俺が女性と話すと、少し表情が曇る。
電話に出るのが少し遅いだけで、「誰といたの?」と聞いてくる。
最初は可愛い嫉妬だと思っていた。
愛されている証拠だと思っていた。
だから深く考えなかった。
いや、考えようとしなかった。
恋をしている時、人は現実よりも理想を見てしまう。
俺も、その一人だった。
そして数か月後。
レイナは母国へ帰ることになった。
空港で見送った時、俺たちは涙を流した。
「すぐ会えるよ。」
「絶対また来る。」
そう約束して別れた。
あの時の俺は、まさかこの約束が、自分の人生を大きく狂わせる始まりになるとは夢にも思っていなかった。
彼女が帰国して間もなく、一通のメッセージが届く。
『話したいことがある。』
その短い言葉が、これから始まる長い物語の最初の一歩だった。

第二章 約束の向こう側
レイナが帰国して一週間ほど経った頃だった。
一通のメッセージが届いた。
『話したいことがある。』
短い文章だった。
普段なら何気なく読むだけのメッセージだったが、その日は胸騒ぎがした。
すぐにビデオ通話をかけた。
画面の向こうに映るレイナは、どこか元気がなかった。
少し沈黙が続いたあと、小さな声で言った。
「赤ちゃんができたかもしれない。」
一瞬、言葉が出なかった。
嬉しい。
だけど、同時に不安だった。
俺はまだ、過去の問題を完全には整理できていなかった。
人生は思い通りには進まない。
そんなことは分かっていた。
それでも、その時だけは「何とかなる」と自分に言い聞かせた。
数日後、病院で妊娠が確認された。
画面越しに見せてもらった小さな写真。
それを見た時、不思議な気持ちになった。
それでも、「守らなければいけない」という責任だけは強く感じていた。
しかし、幸せな時間は長く続かなかった。
数週間後、レイナから泣きながら電話がかかってきた。
赤ちゃんは助からなかった。
流産だった。
画面の向こうで泣き崩れる彼女に、俺は何もできなかった。
慰める言葉も見つからない。
ただ、「ごめん」と何度も繰り返すことしかできなかった。
あの時、もっと近くにいてあげられたら。
今でも時々そう考える。
その出来事を境に、俺は頻繁に彼女の国へ行くようになった。
会いたかった。
支えたかった。
そしてもう一つ。
俺には、新しい夢が生まれていた。
現地で仕事を始めよう。
そう考えるようになったのだ。
知人の紹介を受け、小さな店を任されることになった。
昼は打ち合わせ。
夜は店に立つ。
忙しかったが、不思議と充実していた。
レイナも最初は喜んでくれた。
「これで一緒にいる時間が増えるね。」
そう言って笑っていた。
俺も同じ気持ちだった。
仕事も順調。
恋人もいる。
未来は明るい。
そう信じていた。
だが、少しずつ歯車が狂い始める。
店を始めると、女性スタッフと話す機会が増えた。
取引先との食事もある。
酒を飲む席も避けられない。
それは仕事だった。
だが、レイナには違って見えていた。
最初は軽い冗談だった。
「他の女の子を見ちゃダメだからね。」
笑いながら言っていた。
俺も笑って返していた。
ところが、その冗談は少しずつ本気へ変わっていく。
「今どこ?」
「誰といるの?」
「写真を送って。」
電話の回数が増えた。
ビデオ通話も長くなった。
仕事中でも着信が鳴る。
最初は「心配してくれているんだ」と思っていた。
だから何も疑わなかった。
むしろ、愛されている証拠だとさえ思っていた。
しかし、その頃から、ほんの小さな違和感が心に残るようになる。
電話を切りたがらない。
少し返信が遅れると怒る。
女性スタッフの名前が出るだけで機嫌が悪くなる。
それでも俺は、自分に言い聞かせていた。
「大丈夫。」
「そのうち落ち着く。」
恋をしている人間は、自分に都合の悪い現実を見ようとしない。
俺もそうだった。
あの時点では、まだ気づいていなかった。
この小さな違和感が、やがて俺の人生を大きく飲み込んでいくことになるとは。

第三章 壊れた夜、そして知らない男
現地での仕事が忙しくなるにつれて、俺とレイナの関係には少しずつひびが入り始めていた。
最初は、本当に些細なことだった。
電話に出るのが少し遅れただけで機嫌が悪くなる。
店の女性スタッフと話しているだけで表情が曇る。
「仕事だから。」
何度そう説明しても、レイナは納得しなかった。
それでも俺は、どこか楽観していた。
時間が経てば分かってくれる。
落ち着けば元の優しいレイナに戻る。
そう信じていた。
しかし、その考えは甘かった。
今振り返れば、違和感は最初からあったのだ。
恋をしていた頃の俺は、それを「少し心配性な性格なんだ」と都合よく解釈していた。
だが、一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、それは単なる心配性では片付けられないものだと感じるようになっていった。
レイナは、一度「こうだ」と思い込むと、その考えを変えることがほとんどなかった。
俺が何を説明しても、どんな理由を話しても、彼女の中で一度出来上がった結論は揺るがない。
「違う。」
「そんなはずがない。」
「あなたは嘘をついている。」
その言葉を何度聞いたか分からない。
俺は感情的にならないよう努めた。
一つひとつ事実を説明した。
誰と会っていたのか。
何をしていたのか。
なぜそうなったのか。
だが、その言葉は彼女には届かなかった。
説明すればするほど、「言い訳をしている」「隠そうとしている」と受け取られてしまう。
まるで終わりのない取り調べを受けているようだった。
その頃の俺は、「どうすれば理解してもらえるのか」だけを考えていた。
しかし今になって思う。
俺がどれだけ言葉を尽くしても、彼女の疑いが晴れることはなかったのだ。
ある夜、俺は仕事の打ち合わせでホテルを出た。
一時間ほどで戻る予定だった。
ところが打ち合わせが長引き、気が付けば四時間以上が過ぎていた。
急いでホテルへ戻る。
部屋へ入った瞬間、空気が凍り付いていることに気付いた。
レイナはベッドに座ったまま、一言も話さない。
その沈黙は静けさではなかった。
怒りを押し殺した沈黙だった。
「どこへ行ってたの?」
低く、冷たい声だった。
俺は何度も説明した。
「仕事だった。」
「予定より長引いただけなんだ。」
「本当にそれだけなんだ。」
しかし彼女は首を横に振るだけだった。
「何かある。」
「絶対に隠している。」
その一点から動こうとはしなかった。
そこから大喧嘩が始まった。
夜中まで怒鳴り合い、互いに感情をぶつけ合った。
時計だけが進み、気が付けば外は明るくなっていた。
ほとんど眠れないまま朝を迎えた。
俺は、このままでは駄目だと思った。
「朝飯でも食べながら、落ち着いて話そう。」
近くの喫茶店へ入り、コーヒーを注文した。
温かいコーヒーを飲めば、少しは冷静になれる。
そう思っていた。
しかし、その願いは数分で消えた。
再び言い争いが始まる。
店内には他のお客さんもいた。
それでもレイナの感情は収まらなかった。
次の瞬間、乾いた音が店内に響いた。
俺は平手で叩かれた。
周囲の視線が一斉に集まる。
怒りよりも、情けなさのほうが大きかった。
「どうしてここまで来てしまったんだ。」
その言葉だけが頭の中を何度も繰り返した。
その日、俺は一度日本へ帰ることを決めた。
逃げたかったわけではない。
このまま一緒にいれば、お互い壊れてしまう。
そう思ったからだ。
帰国後、俺の気持ちは少しずつ冷めていった。
電話の回数も減った。
以前のように会いたいとは思わなくなっていた。
俺から電話をしても出ない日が増えた。
それでも、不思議と以前ほど焦ることはなかった。
「ああ、このまま終わるのかもしれない。」
そんなことを考えるようになっていた。
一か月後。
仕事のため、俺は再びフィリピンへ向かった。
レイナとも再会した。
驚いたことに、彼女は以前とは別人のように穏やかだった。
怒らない。
責めない。
笑顔まで見せる。
俺は少しだけ安心した。
「ようやく落ち着いたのかもしれない。」
そう思った。
食事を終えたあと、俺は仕事の用事が残っていたため、レイナを先にホテルへ帰した。
「先に戻っていて。」
彼女は静かにうなずいた。
俺は用事を済ませ、ホテルへ戻った。
部屋のドアを開けた瞬間、聞き慣れない男の声が聞こえた。
その瞬間、俺は嫌な予感を覚えた。
その予感が当たってしまうとは、その時の俺はまだ思ってもいなかった。

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