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雨の成田空港で泣いていたフィリピン人女性―母に会うため日本へ来た彼女と、もう恋を信じられなくなった男の物語

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はじめに

フィリピン人女性との恋愛。

そう聞くと、多くの人は夜の街での出会いを想像するかもしれません。

マニラ。

アンヘレス。

マラテ。

KTV。

バー。

バーファイン。

日本人男性がフィリピンへ行き、そこで出会った女性に惹かれていく。

そんな物語は、昔からいくらでもあります。

でも今回の物語は、少し違います。

出会いの場所は、夜の街ではありません。

酒もありません。

派手なドレスもありません。

男を誘うような甘い言葉もありません。

場所は、雨の成田空港。

そこで一人のフィリピン人女性が、スマホを握りしめて泣いていました。

彼女は、日本に住む母親に会うためにフィリピンから来た女性でした。

しかし、母親は迎えに来ませんでした。

一方、彼女に声をかけた日本人男性は、過去にフィリピン人女性との恋愛で深く傷ついた男でした。

もうフィリピン人女性は信じない。

もう関わらない。

そう決めていたはずの男が、雨の空港で泣いている彼女を見捨てることができなかった。

これは、そんな二人の静かな出会いから始まる物語です。


雨の成田空港で泣いていた彼女

雨の日だった。

六月の終わり。

成田空港のガラス張りの天井には、灰色の空が重くのしかかっていた。

到着ロビーには、いつものように色々な人間がいた。

スーツケースを引く旅行者。

久しぶりの再会に抱き合う家族。

外国語で電話をする人。

迎えに来た恋人を見つけて笑う女性。

空港という場所は、いつも誰かにとって始まりであり、誰かにとって終わりでもある。

俺はその日、誰かを迎えに来たわけではなかった。

仕事の用事で成田方面まで来て、帰りに空港内の店で少し買い物をしただけだった。

昔は、空港に来るだけで胸が高鳴った。

フィリピンへ行く時のあの感覚。

飛行機に乗る前の少し浮ついた気持ち。

マニラの湿った空気。

アンヘレスの夜。

マラテのネオン。

タクシーの排気ガス。

店の前で笑っている女たち。

そういうものを思い出すだけで、若い頃の自分に戻れたような気がした。

でも今の俺にとって、空港はもう胸が躍る場所ではなかった。

むしろ、思い出したくないものまで連れてくる場所だった。

フィリピン。

その国の名前を聞くだけで、俺の中には色々な感情が浮かぶ。

懐かしさ。

怒り。

後悔。

情けなさ。

そして、どうしようもない寂しさ。

若い頃からフィリピンには何度も行った。

女にも惚れた。

金も使った。

信じたこともある。

裏切られたこともある。

結婚までした。

そして、失敗した。

だから俺は、もうフィリピン人女性との恋愛なんてこりごりだと思っていた。

あの明るさも。

あの甘え方も。

あの家族の話も。

あの「大丈夫」という言葉も。

全部、もういい。

そう思っていた。

そんな俺の目に、一人の女性が入った。

到着ロビーの端。

柱の陰。

彼女は小さなスーツケースの横に座り込んでいた。

最初は気にしなかった。

空港には色々な人がいる。

疲れて座り込んでいる人。

迎えを待っている人。

電話をしながら泣いている人。

珍しい光景ではない。

俺はそのまま通り過ぎようとした。

しかし、耳に入ってきた言葉で足が止まった。

「Mama…… please answer……」

英語だった。

その後に、かすかにタガログ語が混じった。

俺は振り返った。

女性は三十代前半くらいに見えた。

派手な服ではなかった。

白いシャツ。

薄いベージュのカーディガン。

古びたスニーカー。

化粧も濃くない。

むしろ顔色が悪かった。

長い髪は雨の湿気で少し乱れていて、スマホを両手で握りしめていた。

何度も電話をかけている。

でも、相手は出ない。

彼女は画面を見つめたまま、唇を噛んだ。

そして、もう一度小さな声で言った。

「Mama……」

その声を聞いた瞬間、俺の中で嫌なものが動いた。

関わるな。

そう思った。

フィリピン人の女。

空港で困っている。

母親と連絡が取れない。

金がない。

宿がない。

だいたい想像がつく。

関われば面倒になる。

いい人ぶれば、最後はこっちが傷つく。

昔の俺なら声をかけていただろう。

困っている外国人を見れば、助けてやろうと思ったかもしれない。

まして相手がフィリピン人なら、少し知っているタガログ語を使って、親切な日本人を演じていたかもしれない。

でも今の俺は違う。

俺はもう、そんなに優しい男ではなかった。

いや、優しくできるほど余裕がなかった。

俺は視線をそらし、そのまま歩き出した。

しかし、三歩ほど歩いたところで、後ろから小さな音が聞こえた。

スーツケースが倒れた音だった。

振り返ると、彼女が慌てて立ち上がろうとしていた。

でも足元がふらつき、また座り込んでしまった。

周りの人間は一瞬だけ見る。

そして通り過ぎる。

空港では皆、自分のことで忙しい。

俺もその一人でいいはずだった。

それなのに、俺は戻っていた。

「大丈夫ですか?」

日本語で言った後、すぐに通じないだろうと思い直した。

「Are you okay?」

彼女は顔を上げた。

目が赤かった。

泣いていたのは間違いなかった。

彼女は俺を見て、一瞬警戒した。

当然だ。

日本に着いたばかりで、知らない中年男に話しかけられたのだから。

「I’m okay……」

そう言ったが、どう見ても大丈夫ではなかった。

俺は倒れたスーツケースを起こした。

「誰か迎えに来るんですか?」

英語で聞いた。

彼女は少し迷ってから答えた。

「My mother…… she said she will come. But…… no answer now.」

やっぱりそうか。

俺は心の中でため息をついた。

「日本に住んでるんですか、お母さんは?」

「Yes. In Chiba…… maybe.」

「Maybe?」

彼女はスマホを開き、古いメッセージを見せた。

そこには、ローマ字で住所らしきものが書いてあった。

千葉県。

聞いたことのある地名だった。

成田から遠くはない。

だが、彼女の不安そうな顔を見る限り、その住所に本当に母親がいるのかどうかも怪しかった。

「ホテルは?」

「No hotel. Mama said…… she will take me.」

最悪だ。

迎えに来ると言った人間が来ない。

泊まる場所もない。

日本語も話せない。

財布の中も、おそらく心細い。

俺は聞いた。

「名前は?」

「Maria Ruth. But everyone call me Ruth.」

「ルース?」

「Yes.」

俺も自分の名前を名乗った。

彼女は小さく頭を下げた。

「Thank you, sir.」

その「sir」という言い方に、少しだけ胸が痛んだ。

昔、フィリピンで何度も聞いた言葉だった。

店の女たちも、空港の職員も、タクシーの運転手も、少し距離を置くように「sir」と呼ぶ。

俺はその言葉が好きだった時期もある。

日本では誰にも特別扱いされない自分が、フィリピンに行くと少し偉くなったような気がした。

今思えば、恥ずかしい話だ。

「とりあえず、ここにずっといるわけにはいかないですね」

俺はそう言った。

ルースは意味がわからないような顔をした。

俺は翻訳アプリを開いた。

日本語を英語に変換して画面を見せる。

彼女は読んで、ゆっくりうなずいた。

「I can wait. Maybe Mama is coming.」

「何時間待ったの?」

「Three hours.」

三時間。

俺は思わず眉をひそめた。

「電話は?」

「Many times. No answer.」

「メッセージは?」

「Seen…… before. Now no reply.」

既読無視。

国は違っても、その冷たさは同じだった。

俺は迷った。

ここでできることは二つだった。

一つは、空港の案内所か警察に連れていくこと。

もう一つは、安いホテルを探して一晩だけ泊まらせること。

本来なら前者が正しい。

俺が関わる必要はない。

知らない女を助けて、後で面倒になったら馬鹿を見るのは俺だ。

だが彼女は、泣きながらスマホを握りしめていた。

その顔を見ていると、昔の誰かの顔ではなく、ただ一人の娘の顔に見えた。

母親に会いに来たのに、母親が来ない。

それだけの話だった。

俺は案内所まで彼女を連れていった。

事情を説明した。

職員は親切だったが、できることは限られていた。

母親の住所へ自力で向かうか。

警察に相談するか。

宿泊先を取るか。

ルースは警察という言葉を聞くと、強く首を振った。

「No police. Please. I don’t want trouble.」

フィリピン人らしい反応だと思った。

警察に頼ることへの抵抗。

入管や書類への不安。

何か悪いことをしていなくても、権力に関わるのを怖がる感覚。

俺にはそれが少しわかった。

「じゃあ、今日はホテルを探しましょう」

俺は翻訳アプリで見せた。

ルースは慌てて言った。

「No money. I can sleep here.」

「ここでは無理です」

「I pay you back.」

「そういう話じゃない」

俺は少し強めに言った。

彼女は黙った。

俺は空港近くの安いビジネスホテルをスマホで探した。

幸い、空きがあった。

俺は予約を取った。

もちろん俺が払った。

その瞬間、胸の奥で昔の俺が笑った。

また始まったな。

また金を出したな。

またフィリピン人に情をかけたな。

馬鹿だな、お前は。

俺はその声を無視した。

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日本に来た理由は、ただ母に会いたかったから

ホテルへ向かうタクシーの中で、ルースは窓の外を見ていた。

雨の成田。

濡れた道路。

見慣れない日本の看板。

コンビニの明かり。

彼女は小さな声で言った。

「Japan is cold.」

「今日は雨だから」

俺はそう返した。

彼女は少し笑った。

「Not only weather.」

その言葉に、俺は何も言えなかった。

ホテルに着くと、チェックインを手伝った。

フロントの女性は最初、俺たちを少し変な目で見た。

中年の日本人男と、泣きはらしたフィリピン人女性。

まあ、そう見られても仕方がない。

俺はあくまで別々に立ち、必要な説明だけをした。

ルースは何度も頭を下げた。

「Thank you. Thank you so much.」

「明日、お母さんの住所に行くんですか?」

「Yes. I want to go.」

「一人で行けますか?」

彼女は答えなかった。

俺はため息をついた。

「明日、時間があれば連れていきます」

言った瞬間、自分で自分に呆れた。

何をやっているんだ。

今日だけのつもりだった。

空港で声をかけ、ホテルまで手配して、それで終わり。

そうするはずだった。

なのに俺は、翌日の約束までしていた。

ルースは驚いた顔をした。

「Why?」

その質問は当然だった。

俺にも理由はわからなかった。

だから俺は適当に答えた。

「住所が日本語だから。一人だと大変でしょう」

彼女はしばらく俺を見ていた。

そして、静かに言った。

「You are kind.」

俺は笑わなかった。

「そうでもないです」

本当にそうだった。

俺は優しい人間ではない。

ただ、放っておけなかっただけだ。

その夜、家に帰ってからも、俺はなかなか眠れなかった。

雨の音が窓を叩いていた。

スマホには、ルースからメッセージが来ていた。

「Thank you for helping me today. I don’t know what to do without you. God bless you.」

俺は返信しなかった。

返信したら、何かが始まってしまう気がした。

翌朝、雨はまだ降っていた。

俺は約束の時間にホテルへ向かった。

ルースはロビーで待っていた。

昨日より少し顔色はよかったが、目の下には疲れが残っていた。

彼女は小さな紙袋を持っていた。

「For you.」

中には、フィリピンのお菓子が入っていた。

きっとフィリピンから持ってきたものだった。

「お礼?」

「Small only.」

俺は受け取った。

「ありがとう」

その言葉に、彼女は少しだけ笑った。

タクシーと電車を乗り継ぎ、母親の住所へ向かった。

千葉県の郊外。

駅前には古い商店街があり、少し歩くと住宅街に入った。

アパートや小さな一軒家が並ぶ、ごく普通の日本の町だった。

フィリピンから来た娘が、長年夢に見た母親のいる場所。

でもそこには、特別なものなど何もなかった。

スマホの住所を頼りに歩き、ようやく目的のアパートに着いた。

二階建ての古い建物だった。

外階段は錆びていて、郵便受けにはチラシが詰まっていた。

ルースは部屋番号を確認した。

手が震えていた。

俺は少し後ろに下がった。

これは彼女の問題だ。

俺が前に出ることではない。

ルースは深呼吸して、インターホンを押した。

返事はなかった。

もう一度押した。

やはり返事はない。

彼女はドアを軽くノックした。

「Mama…… it’s me. Ruth.」

沈黙。

雨の音だけが聞こえた。

俺は周囲を見た。

隣の部屋のカーテンが少し揺れた。

誰かが見ている。

ルースはスマホを取り出し、電話をかけた。

すると、部屋の中から着信音が聞こえた。

いる。

間違いなく中にいる。

ルースの顔色が変わった。

「Mama?」

彼女はもう一度ドアを叩いた。

「Mama, please open. I came from Philippines.」

しばらくして、ドアの向こうで物音がした。

鍵が開く音。

ドアが少しだけ開いた。

中から顔を出したのは、五十代半ばくらいのフィリピン人女性だった。

髪を染め、化粧をしていた。

年齢より少し派手に見える。

その顔を見た瞬間、ルースは息を止めた。

「Mama……」

母親はルースを見た。

その目には、驚きよりも迷惑そうな色が浮かんでいた。

「Why you come here?」

英語とタガログ語が混じった声だった。

ルースは固まった。

「You said…… you will pick me up.」

「I told you wait. I am busy.」

「I wait three hours.」

「I have problem.」

母親は俺を見た。

そして、少し警戒したような顔をした。

「Who is he?」

ルースは答えた。

「He helped me.」

母親の目つきが変わった。

一瞬で俺を値踏みするような視線だった。

俺はその視線をよく知っていた。

日本人。

男。

金を持っているかもしれない人間。

そういう目だった。

母親はドアをさらに少し開けた。

部屋の奥から、日本人らしき男の声がした。

「誰だよ?」

母親は振り返って何か言った。

男は見えなかった。

母親はルースに向き直った。

「You cannot stay here.」

ルースの顔から表情が消えた。

「Why?」

「Small room. My husband don’t like.」

「But you are my mother.」

母親は面倒くさそうにため息をついた。

「Ruth, you are adult already. Why you come suddenly?」

「You told me come. You said you miss me.」

「That was before. Situation changed.」

その言葉は残酷だった。

状況が変わった。

たったそれだけで、娘がフィリピンから日本まで来た意味が消されてしまった。

ルースは何かを言おうとしたが、声が出なかった。

母親は早口で続けた。

「I cannot help you now. I have my life here. You go back Philippines.」

「I cannot go back now.」

「Then ask him.」

母親は俺を指した。

俺の腹の奥が熱くなった。

彼に頼みなさい。

そう言ったのだ。

俺は黙っていたが、拳を握っていた。

ルースは首を振った。

「No. He is stranger.」

「Then why he is here?」

母親は鼻で笑った。

その笑い方を見た瞬間、俺の中で何かが切れかけた。

でも俺は何も言わなかった。

これはルースの母親だ。

俺が感情的になっても、何も解決しない。

ルースは震える声で言った。

「Mama, I came because I wanted to see you.」

母親は一瞬だけ黙った。

でもすぐに視線をそらした。

「I’m sorry. Not now.」

そしてドアを閉めた。

鍵の音がした。

ルースはその場に立ち尽くした。

雨が彼女の髪を濡らしていた。

傘をさしているのに、横から吹き込む雨で肩が濡れていた。

彼女はドアを見つめたまま、何も言わなかった。

俺は声をかけられなかった。

どんな言葉も軽すぎる気がした。

やがてルースは、ゆっくりとアパートの階段を下りた。

一階まで来たところで、彼女は急にしゃがみ込んだ。

そして、声を殺して泣いた。

昨日の空港での涙とは違った。

昨日は不安の涙だった。

でも今は、完全に捨てられた人間の涙だった。

「I thought…… she wants to see me.」

彼女は泣きながら言った。

「All my life…… I wait.」

俺はその言葉を聞いて、胸が苦しくなった。

彼女は水商売の女でもなければ、男を探しに来た女でもなかった。

金をねだる女でもなかった。

ただ、母親に会いたかっただけだった。


フィリピン人の家族愛の裏にあるもの

フィリピンでは、家族という言葉がとても重い。

家族のため。

親のため。

兄弟のため。

子供のため。

フィリピン人と関わったことがある人なら、一度はこの言葉を聞いたことがあると思う。

それは本当に美しい部分でもある。

自分一人のためではなく、家族全体を支える。

海外へ働きに行く。

仕送りをする。

兄弟の学費を払う。

親の病院代を出す。

子供のために我慢する。

日本人が忘れかけているような、濃い家族のつながりがフィリピンにはある。

しかし、その一方で、家族という言葉が人を苦しめることもある。

家族だから助けなければいけない。

家族だから断れない。

家族だから責任を負わされる。

そして時には、家族だからこそ一番深く傷つけられる。

ルースは、まさにその中にいた。

彼女の母親は、昔フィリピンを出て日本へ来た。

最初はきっと、家族のためだったのかもしれない。

娘のため。

生活のため。

未来のため。

そう言って日本へ来たのかもしれない。

だが時間が経ち、日本で別の人生ができた。

新しい男ができた。

新しい生活ができた。

そして、フィリピンに残してきた娘は、だんだん過去の存在になっていった。

ルースはそれでも母を待っていた。

いつか会える。

いつか迎えに来てくれる。

いつか抱きしめてくれる。

そう信じていた。

だが現実は違った。

母親は、娘を歓迎しなかった。

それどころか、自分の生活に入ってくることを迷惑がった。

ルースは雨の中で泣いていた。

俺はその姿を見ながら、フィリピン人の家族愛というものを、もう一度考えていた。

俺は今まで、フィリピン人の家族愛を少し単純に見ていたのかもしれない。

家族を大切にする国。

家族のために生きる人たち。

そんな綺麗な面ばかり見ていたわけではない。

もちろん金の問題も見てきた。

親戚からの要求。

仕送り。

学費。

病院代。

家の修理。

突然出てくる家族のトラブル。

そういうものに振り回された日本人男性もたくさん見てきた。

だから俺は、どこかでフィリピンの家族という言葉に疲れていた。

でも目の前のルースを見ていると、家族とは金の話だけではないと感じた。

もっと深いところで、子供の心を縛るものでもある。

捨てられても、嫌いになりきれない。

冷たくされても、完全には切れない。

母親だから。

家族だから。

その言葉が、彼女を苦しめていた。

俺は傘を彼女の方へ少し寄せた。

「今日は戻りましょう」

翻訳アプリで見せると、彼女は小さくうなずいた。

その日から、俺とルースの奇妙な関係が始まった。

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恋愛ではなく、保護でもない不思議な関係

俺とルースの関係は、恋愛ではなかった。

少なくとも最初は。

俺は彼女の保護者でもない。

恋人でもない。

親戚でもない。

ただ、成田空港で偶然出会っただけの男だった。

それなのに、彼女は日本で頼れる人間がほとんどいなかった。

母親には拒絶された。

友達もいない。

日本語もできない。

観光ビザで来ているため、働くこともできない。

残された選択肢は、フィリピンに帰ることだけだった。

でも彼女はすぐには帰りたがらなかった。

理由は一つだった。

母親と、もう一度ちゃんと話したい。

それだけだった。

「Why she left me?」

ある日、ファミレスで彼女はそう聞いた。

俺はコーヒーを飲みながら、答えに困った。

「わからない」

それしか言えなかった。

彼女は窓の外を見た。

「When I was child, I always think…… maybe Mama is working hard for me. Maybe she cry because she miss me.」

俺は黙って聞いていた。

「But when I see her eyes…… I know. She doesn’t need me.」

その言葉は重かった。

俺はフィリピンで、親に仕送りする女をたくさん見てきた。

子供のために働く女も見てきた。

でも逆もある。

子供を置いて、自分の人生を選んだ母親。

日本で新しい男と暮らし、過去を消した女。

ルースの母親も、その一人だったのかもしれない。

もちろん、彼女にも彼女の事情はあるだろう。

日本で生きるのは簡単ではない。

外国人として、女として、年を取りながら生活する厳しさもある。

でもだからといって、娘を空港に三時間待たせ、ドアの前で追い返していい理由にはならない。

俺は言った。

「あなたが悪いわけじゃない」

翻訳アプリの画面を見たルースは、苦笑いした。

「Many people say that. But still pain.」

たしかにそうだ。

悪くないと言われても、痛いものは痛い。

俺自身、それを知っていた。

離婚した時もそうだった。

周りは言った。

「お前は悪くない」

「相手が悪い」

「忘れろ」

「次へ行け」

でも、そう言われても心は軽くならなかった。

自分が悪くなくても、壊れたものは戻らない。

信じた時間は消えない。

使った金も、注いだ感情も、夜中に一人で考えた時間も、全部残る。

俺はルースを見ながら、昔の自分を思い出していた。

ある夜、ルースが俺の車に乗っている時だった。

彼女は窓の外のコンビニを見て言った。

「Japan has many lights. But people look lonely.」

俺は少し笑った。

「フィリピンは暗いけど、人はうるさい」

翻訳アプリで見せると、彼女は声を出して笑った。

その笑い声を聞いた時、俺の胸が少しだけ動いた。

久しぶりに聞く、フィリピン人女性の笑い声だった。

明るくて、遠慮がなくて、でもどこか寂しさを隠している笑い方。

俺はその笑い声が好きだった。

そして、嫌いだった。

好きだったからこそ、嫌いになろうとしていた。


過去に傷ついた男の心

ルースは、俺がフィリピンに詳しいことにすぐ気づいた。

タガログ語の単語をいくつか知っていること。

マニラの地名を知っていること。

ジョリビーの味を知っていること。

フィリピン人がご飯を山盛り食べることを知っていること。

彼女は不思議そうに聞いた。

「You have Filipina wife before?」

俺は一瞬黙った。

「Yes. Before.」

「Divorced?」

「Yes.」

「She hurt you?」

その聞き方があまりにもまっすぐだったので、俺は苦笑いした。

「少しね」

翻訳アプリには、そう短く入れた。

でもルースは納得しなかった。

「Only little? Your eyes say many.」

フィリピン人女性は、こういうところがある。

人の心にずかずか入ってくる。

日本人なら聞かないことを、悪気なく聞いてくる。

昔はそれが鬱陶しかった。

でもその時は、不思議と嫌ではなかった。

俺は少しだけ話した。

昔、フィリピン人女性と結婚したこと。

最初は本当に信じていたこと。

家族の問題。

金の問題。

ビザの問題。

日本での生活。

そして、最後はうまくいかなかったこと。

細かいことは言わなかった。

言えば長くなる。

それに、まだ誰かに全部話せるほど整理できていなかった。

ルースは静かに聞いていた。

そして言った。

「Maybe you don’t hate Filipina. Maybe you hate your pain.」

俺は何も言えなかった。

その通りだったからだ。

俺はフィリピン人女性が嫌いになったのではない。

自分がまた傷つくことが怖かったのだ。

それを認めるのは、思った以上に苦しかった。

人は傷つくと、理由を探す。

あの国の女はこうだ。

フィリピン人はこうだ。

外国人はこうだ。

女はこうだ。

そうやって大きな言葉でまとめた方が楽になる。

一人の人間に傷つけられたと考えるよりも、国や文化のせいにした方が、心の整理がつきやすい。

でも本当は違う。

一人ひとり違う。

わかっている。

わかっているのに、心が追いつかない。

俺はルースに対しても、どこかで警戒していた。

この女も同じかもしれない。

最後は金かもしれない。

泣いているのも計算かもしれない。

そんな嫌な見方をしていた。

自分でも情けなかった。

でもそれが、傷ついた男の本音だった。

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母親との再会、そして本当の別れ

数日後、ルースの母親から連絡が来た。

ルースのスマホに短いメッセージが届いた。

「Come tomorrow. Alone.」

一人で来い。

俺はそれを見て、嫌な予感がした。

「一人で行くの?」

ルースは迷っていた。

「She is my mother.」

「でも前に追い返された」

「I know.」

「俺も近くまで行きます。会う時は一人でいい。でも何かあったら連絡して」

翻訳アプリで見せると、ルースはしばらく黙った後、うなずいた。

翌日、俺は彼女を母親のアパート近くまで送った。

ルースは一人で階段を上がった。

俺は少し離れたコンビニの駐車場で待った。

三十分。

一時間。

一時間半。

不安になりかけた頃、ルースからメッセージが来た。

「Can you come?」

俺はすぐに向かった。

部屋の前に着くと、ドアが開いていた。

中から怒鳴り声が聞こえた。

母親の声。

そして男の低い声。

俺が中に入ると、ルースは部屋の隅に立っていた。

泣いてはいなかったが、顔が青ざめていた。

母親は俺を見ると、少し安心したような、勝ち誇ったような顔をした。

「Good. You came.」

部屋は散らかっていた。

テーブルの上には空き缶と、コンビニ弁当の容器。

奥には中年の日本人男が座っていた。

目つきが悪く、明らかに俺たちを歓迎していなかった。

母親は早口で言った。

「Ruth need money. Ticket change, hotel, food. You help her, right?」

やっぱり金か。

俺は冷静に聞いた。

「あなたが母親でしょう」

母親は日本語が少しわかるようだった。

顔をしかめた。

「私も大変。生活ある。お金ない」

「娘を日本に呼んだのはあなたですか?」

「呼んでない。来たいって言った」

ルースが小さく言った。

「You told me, Mama. You said come.」

母親は怒った。

「I said maybe! Not now! You always misunderstand!」

ルースは黙った。

その姿を見て、俺の中で怒りが膨らんだ。

でも、怒鳴るのは簡単だ。

怒鳴ればこの母親はさらに被害者の顔をするだろう。

日本人の男がフィリピン人母娘の問題に口を出した。

そういう構図になる。

俺はなるべく静かに言った。

「ルースは大人です。彼女の今後は彼女が決めます。でも、あなたが母親として会いたくないなら、はっきり言ってあげた方がいい」

母親は黙った。

俺は続けた。

「中途半端に呼んで、中途半端に突き放して、困ったら他人に金を出させる。それは違うでしょう」

母親の顔が歪んだ。

「You don’t know my life.」

「知らないです」

俺はすぐに答えた。

「でも、彼女が泣いていたのは見ました」

部屋の空気が止まった。

ルースの母親は、初めて少しだけ視線を落とした。

だが、すぐにまた強い顔に戻った。

「I cannot be mother now. Too late.」

その言葉に、ルースが息を飲んだ。

母親は続けた。

「I left Philippines long time. I survive here. I have many problem. Ruth is good girl, but I cannot carry her.」

背負えない。

その言葉は、残酷なほど正直だった。

母親は悪魔ではなかった。

ただ、自分の人生を守るだけで精一杯の女だった。

だからこそ、余計に救いがなかった。

完全な悪人なら憎める。

でも、弱いだけの人間は、もっと厄介だ。

ルースは母親を見つめていた。

「So…… you don’t want me?」

母親は答えなかった。

それが答えだった。

ルースはゆっくりとうなずいた。

涙は出ていなかった。

泣く力もなくなったように見えた。

「Okay.」

彼女はそう言った。

「I understand.」

そして、俺の方を見た。

「Let’s go.」

部屋を出る時、母親はルースを呼び止めなかった。

外に出ると、空は晴れていた。

昨日までの雨が嘘のように、湿った道路に光が反射していた。

ルースは階段を下りながら、突然言った。

「I don’t want to hate her.」

俺は彼女の横顔を見た。

「But I don’t know how to love her now.」

俺は、その言葉が心に残った。

憎みたくない。

でも、どう愛せばいいのかわからない。

それは、俺自身がフィリピンに対して感じていたことにも似ていた。

フィリピンを嫌いになりたくない。

でも、どう好きでいればいいのかわからない。


日本の町で少しずつ近づく二人

ルースは、その日から少し変わった。

泣かなくなった。

母親の話をしなくなった。

代わりに、日本の町をよく見るようになった。

コンビニ。

駅。

スーパー。

公園。

普通の住宅街。

彼女は何でも珍しそうに見た。

ある日、俺は彼女を小さなフィリピン食材店へ連れて行った。

店に入った瞬間、ルースの顔が明るくなった。

冷凍のバナナキュー。

缶詰のココナッツミルク。

袋に入ったパンシットカントン。

棚に並んだサーディン。

フィリピンの匂いがした。

ルースは懐かしそうに商品を手に取った。

「This one, my lola always cook.」

祖母。

彼女を育てた人だ。

「おばあちゃんは元気?」

「Old. But strong. Very strong.」

ルースは笑った。

「She raised me. She always say, don’t trust sweet words.」

俺は笑った。

「いいおばあちゃんだ」

翻訳アプリで見せると、ルースも笑った。

「Yes. But I trusted my mother’s sweet words.」

その笑顔には、少しだけ悲しみが混じっていた。

店の奥で、フィリピン人の女性店員がタガログ語で声をかけてきた。

ルースは久しぶりに母国語で話した。

その表情を見た時、俺は気づいた。

彼女は日本でずっと緊張していたのだ。

英語。

翻訳アプリ。

知らない電車。

知らない町。

知らない人間。

母親に拒絶された痛み。

全部を抱えながら、日本で一人で立っていた。

俺は今まで、フィリピン人はどこでも明るく生きると思っていた。

でもそれは違う。

明るく見せているだけの人もいる。

笑わないと壊れてしまう人もいる。

ルースは、そういう女だった。

数日後、彼女はフィリピンに帰る航空券を取った。

観光ビザの期限もある。

日本に残る理由も、もうなくなっていた。

「I will go back. Lola waiting.」

彼女はそう言った。

俺はうなずいた。

当然のことだった。

彼女は帰るべきだ。

日本にいても仕事はできない。

母親も頼れない。

俺だって、彼女の人生を背負えるわけではない。

いや、背負ってはいけない。

俺は自分にそう言い聞かせた。

それでも、胸のどこかに穴が空いたような感覚があった。

たった数日。

それだけなのに、彼女がいなくなることを寂しいと思っている自分がいた。

馬鹿だな。

俺はまた同じことをしているのかもしれない。

フィリピン人女性に少し優しくされて、少し笑われて、少し頼られて、それだけで心が動く。

何も成長していない。

そう思った。


私はあなたの過去ではない

帰国の前日、ルースは俺に会いたいと言った。

場所は、成田ではなく、近くの小さな公園だった。

夕方だった。

雨上がりの空に、薄い夕焼けが残っていた。

公園のベンチに座ると、ルースは紙袋を差し出した。

中には、フィリピン食材店で買ったインスタントコーヒーと、お菓子が入っていた。

「Again small gift.」

「また?」

「Because I cannot pay you.」

「払わなくていい」

「I know. But I want to give something.」

俺は受け取った。

「ありがとう」

しばらく二人で黙っていた。

子供たちが遠くで遊んでいた。

日本の夕方。

湿った土の匂い。

フィリピンとはまったく違う静けさ。

ルースが言った。

「You helped me, but you always look like you want to run away.」

俺は苦笑いした。

「そう見える?」

「Yes. Like dog who was hit before.」

俺は思わず笑った。

「犬か」

「Sorry.」

「いや、合ってるかもしれない」

翻訳アプリを使いながら、俺は言った。

「昔、フィリピン人女性と結婚して、うまくいかなかった。それから、フィリピン人女性を見ると警戒してしまう。あなたに対しても、最初はそうだった」

ルースは静かに聞いていた。

俺は続けた。

「でも、あなたはその人じゃない。わかってる。でも、心が勝手に昔を思い出す」

ルースは少しうつむいた。

そして言った。

「I am not your past.」

その言葉は、まっすぐ俺に刺さった。

私はあなたの過去ではない。

「Yes. I know.」

「But sometimes you look at me like I am.」

俺は返す言葉を失った。

彼女は怒っているわけではなかった。

責めているわけでもない。

ただ、事実を言っていた。

俺は彼女を助けながら、どこかで試していたのかもしれない。

この女も同じか。

この女も最後は金か。

この女も嘘をつくのか。

そうやって、目の前のルースではなく、過去の誰かを見ていた。

ルースは静かに言った。

「I also have pain. But I don’t want to make all Japanese same as my mother’s husband.」

彼女は日本人を嫌いになってもおかしくなかった。

母親のそばにいた日本人の男。

空港で助けてくれなかった多くの人。

言葉が通じない国。

冷たい町。

それでも彼女は、全部を同じにしようとはしなかった。

俺は恥ずかしくなった。

自分はどうだっただろう。

一人の女に傷つけられたからといって、フィリピン人女性全体を疑っていたのではないか。

もちろん警戒は必要だ。

現実を知らない綺麗事だけでは生きていけない。

でも、警戒と偏見は違う。

傷ついた経験と、目の前の人間を見ないことは違う。

俺は言った。

「ごめん」

ルースは驚いた顔をした。

「Why sorry?」

「あなたを、ちゃんと見ていなかったかもしれない」

翻訳アプリの文章を見たルースは、しばらく黙っていた。

そして、少し笑った。

「Then look now.」

俺は顔を上げた。

彼女はまっすぐ俺を見ていた。

その目は、初めて空港で見た時よりも強かった。

泣いていた女ではなかった。

母親に捨てられた娘でもなかった。

一人の女性として、そこにいた。

俺はその時、初めて彼女を美しいと思った。

派手ではない。

若さで押し切る美しさでもない。

夜の街で見た女たちのような、作られた華やかさでもない。

傷ついて、それでも立っている人間の美しさだった。


雨の成田で始まり、雨の成田で終わる

翌日。

成田空港は、また雨だった。

まるで最初の日に戻ったようだった。

俺はルースを空港まで送った。

彼女は小さなスーツケースを引いていた。

来た時と同じ荷物。

でも、その背中は少し違って見えた。

チェックインを済ませ、出発ゲートの前まで来た。

周りには、フィリピンへ帰る人たちがたくさんいた。

大きな段ボール箱を持った女性。

日本で働いているらしい男。

子供を連れた家族。

皆それぞれの事情を抱えて、飛行機に乗る。

ルースは俺の前に立った。

「Thank you.」

「気をつけて」

それだけしか言えなかった。

もっと言うことはあったはずだ。

母親のこと。

祖母のこと。

これからのこと。

また日本に来るのか。

連絡していいのか。

でも言葉にすると、何かが壊れそうだった。

ルースは俺を見て言った。

「You know, when I came here, I thought Japan will give me my mother.」

俺は黙って聞いた。

「But Japan gave me you.」

胸の奥が熱くなった。

俺は視線をそらした。

そうしないと、情けない顔を見せそうだった。

「それは良かったのか悪かったのか、わからないな」

翻訳アプリで見せると、ルースは笑った。

「Maybe both.」

彼女らしい答えだった。

出発の時間が近づいた。

ルースは一歩下がった。

そして、少し迷ってから言った。

「Can I say something?」

「もちろん」

「Don’t close your heart because one person broke it.」

俺はその言葉を見て、しばらく動けなかった。

一人に壊されたからといって、心を閉じるな。

簡単な言葉だった。

でも、その簡単なことが俺にはできていなかった。

俺は言った。

「あなたも、お母さんに拒絶されたからといって、自分に価値がないと思わないで」

ルースは画面を見た。

そして、ゆっくりうなずいた。

「I will try.」

「俺も」

二人で少し笑った。

搭乗ゲートの方からアナウンスが流れた。

ルースはスーツケースの持ち手を握った。

もう行かなければならない。

彼女は俺に近づき、軽く抱きしめた。

フィリピン人らしい、自然な抱擁だった。

でもそこには、甘えも計算もなかった。

ただの感謝と、別れの温度があった。

「See you again?」

彼女が聞いた。

俺はすぐには答えられなかった。

また会う。

その言葉は簡単だ。

でも、簡単に言いたくなかった。

俺は言った。

「会えたら、じゃなくて、会いましょう」

翻訳アプリが少し変な英語に訳した。

ルースはそれを見て笑った。

「Okay. Next time, don’t be scared.」

俺は苦笑いした。

「努力します」

彼女は手を振った。

そして出発ゲートの向こうへ歩いていった。

何度か振り返った。

そのたびに俺は手を振った。

やがて彼女の姿は、人混みの中に消えた。

俺はしばらくその場に立っていた。

雨の成田。

最初に彼女を見つけた場所と同じ空港。

でも、俺の中の何かは少し変わっていた。


フィリピンは過去ではなく、未来かもしれない

フィリピンという国は、俺にとってずっと過去だった。

若かった頃の夢。

夜の街の記憶。

失敗した結婚。

使った金。

裏切られた感情。

笑っていた女たち。

泣いていた自分。

全部が過去だった。

でもルースと出会って、少しだけ思った。

フィリピンは過去だけではないのかもしれない。

そこにはまだ、俺の知らない人間がいる。

俺が勝手に決めつけていた物語の外側で、生きている人たちがいる。

騙す女もいる。

嘘をつく女もいる。

金のために近づく女もいる。

それは現実だ。

綺麗事だけでは語れない。

でも、母親に会いたくて日本まで来て、空港で泣いている女もいる。

傷ついても、人を恨みきれない女もいる。

自分の痛みを抱えながら、他人の痛みに気づける女もいる。

俺はスマホを取り出した。

ルースからメッセージが来ていた。

「I am at gate now. Thank you for finding me in the rain.」

俺は初めて、すぐに返信した。

「こちらこそ。雨の日に会えてよかった」

英語に直すと、少し変な文章になった。

それでも送った。

しばらくして、彼女から返事が来た。

「Next time, sunny day.」

俺はその画面を見て、少し笑った。

空港のガラスの向こうでは、雨がまだ降っていた。

でも、不思議とその雨は、もう冷たく見えなかった。

雨の成田で泣いていた彼女は、最後には笑って手を振っていた。

そして俺は、初めてフィリピンという国を、過去ではなく、未来として見ていた。


あとがき

フィリピン人女性との恋愛というと、どうしても夜の街、金銭問題、家族問題、裏切り、ビザ、結婚といった現実的な話がつきまといます。

もちろん、それらは実際に存在します。

綺麗事だけでは語れません。

フィリピン人女性との恋愛で傷ついた日本人男性も多いでしょう。

信じたのに裏切られた人。

家族の問題に巻き込まれた人。

お金を使いすぎてしまった人。

結婚しても幸せになれなかった人。

そういう話は、決して珍しくありません。

でも、すべての出会いが同じではありません。

フィリピン人女性だからこうだ。

日本人男性だからこうだ。

国際恋愛だからこうなる。

そうやって決めつけてしまうと、目の前にいる一人の人間を見失ってしまうことがあります。

今回の物語で描きたかったのは、恋愛そのものよりも、傷ついた人間同士が少しずつ心を開いていく過程です。

男は、過去の恋愛でフィリピン人女性を信じられなくなっていた。

女は、母親に捨てられたことで自分の価値を見失いかけていた。

そんな二人が、雨の成田空港で偶然出会った。

最初から恋ではなかった。

甘い言葉から始まったわけでもない。

ただ、見捨てられなかった。

ただ、放っておけなかった。

そこから始まる関係もあるのだと思います。

フィリピンという国には、明るさがあります。

優しさがあります。

家族愛があります。

でも同時に、嘘もあります。

貧しさもあります。

依存もあります。

裏切りもあります。

その両方を知った上で、それでももう一度、人を信じられるのか。

この物語は、その問いを描いたものです。

雨の成田で泣いていた彼女は、最後に笑って帰っていきました。

そして男は、閉じていた心をほんの少しだけ開きました。

完全なハッピーエンドではありません。

でも、人生はそれくらいでいいのかもしれません。

すべてが解決しなくてもいい。

傷が完全に消えなくてもいい。

ただ、次に会う時は晴れていたらいい。

そう思えるだけで、人は少し前に進めるのだと思います。

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