第四章 愛情が執着に変わった日
レイナと別れてから、一週間ほどが過ぎていた。
たった一週間だった。
それなのに、私には一か月にも、半年にも感じられた。
別れを告げた直後、私はこれでようやく楽になれると思っていた。
毎日のように続いていた喧嘩。
説明しても信じてもらえない苦しさ。
別の男と連絡を取っていた彼女への怒り。
何を聞いても、納得できる答えが返ってこない苛立ち。
疑い、怒鳴り合い、傷つけ合う関係から、ようやく抜け出せる。
私はそう思っていた。
実際、別れて最初の数日は静かだった。
何度も鳴っていた電話は鳴らない。
朝から晩まで届いていたメッセージも来ない。
夜になっても、彼女の機嫌を気にする必要がない。
電話に出るのが少し遅れただけで責められることもない。
私は久しぶりに、一人で落ち着いて眠れるはずだった。
ところが、眠れなかった。
部屋が静かすぎた。
これまで煩わしいとさえ感じていた着信音が鳴らないだけで、部屋が異常に広く感じられた。
食事をしていても、仕事をしていても、ふと彼女の顔が浮かんだ。
今、誰といるのだろう。
あの男と話しているのだろうか。
もう私のことなど、忘れているのだろうか。
自分から別れを告げたはずなのに、心は少しも自由になっていなかった。
むしろ、離れたことで、彼女の存在は以前より大きくなっていた。
私は何度も携帯電話を手に取った。
連絡先を開き、レイナの名前を見つめる。
しかし、電話をかけることはできなかった。
自分から終わらせたのだ。
今さら何を話すのか。
そう思って画面を閉じる。
だが数分後には、また同じ画面を開いている。
そんなことを何度も繰り返した。
別れてから七日ほど経った夜、携帯電話が鳴った。
画面には、レイナの名前が表示されていた。
胸が大きく鳴った。
すぐには出なかった。
着信音を聞きながら、私は迷っていた。
出れば、また同じことを繰り返すかもしれない。
出なければ、このまま本当に終わるかもしれない。
電話が切れる直前、私は通話ボタンを押した。
「もしもし」
返事はなかった。
代わりに、かすかな泣き声が聞こえた。
「レイナ?」
しばらくして、彼女は震える声で言った。
「ごめんなさい」
私は黙っていた。
「全部、私が悪かった」
「もうしない」
「あなたがいないと駄目」
彼女は泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返した。
その声を聞いた瞬間、それまで必死に保っていた決意が崩れ始めた。
私は彼女を完全に許したわけではなかった。
あの男のことを忘れたわけでもなかった。
ただ、彼女が私を必要としているという事実に、心が動いてしまった。
あれほど私を苦しめた女が、私を失って泣いている。
まだ私を求めている。
そのことが、私の弱い部分を強く刺激した。
「本当に変われるのか」
私は尋ねた。
「変わる」
彼女はすぐに答えた。
「もう疑わない」
「もう怒らない」
「あなたを信じる」
私は何度も同じことを聞いた。
彼女も、何度も同じ答えを返した。
今思えば、あの時の私は答えを求めていたのではない。
やり直す理由を探していただけだった。
彼女の言葉を信じたかったのではない。
もう一度彼女を自分のもとへ戻すために、信じたふりをしたかったのだと思う。
数日後、私たちは再び会った。
レイナは、出会った頃のようにおとなしかった。
声も小さく、私の話を遮らずに聞いた。
「あの男とは、もう話していない」
「もう終わった」
「私には、あなたしかいない」
そう言って、彼女は私の手を握った。
私はその言葉を信じたかった。
いや、信じなければ、自分がここまで苦しんだ意味がなくなるような気がしていた。
やり直すことになった日、私は彼女を強く抱きしめた。
その瞬間、胸の奥に大きな安堵が広がった。
彼女が戻ってきた。
あの男のところへ行かず、もう一度、私のもとへ戻ってきた。
それだけで、私は勝ったような気持ちになっていた。
今振り返れば、あの瞬間だった。
私の中の愛情が、執着へと形を変えたのは。
別れる前までの私は、まだ彼女を純粋に愛していた。
会いたい。
笑っていてほしい。
幸せになってほしい。
そんな、ごく普通の恋愛だった。
しかし、やり直してからの私は違った。
もう二度と失いたくない。
誰にも渡したくない。
自分だけを見ていてほしい。
彼女が幸せであることよりも、彼女が自分のそばにいることのほうが大切になっていた。
私は彼女を愛する男から、彼女を失うことを恐れる男へ変わっていった。
そして、その恐怖は少しずつ、所有欲へ変わっていった。
夫婦になれば、もう彼女は離れない。
正式な妻になれば、ほかの男のところへ行くこともない。
結婚すれば、彼女を完全に自分のものにできる。
私はいつしか、そう考えるようになっていた。
もちろん、当時の私はそれを愛だと思っていた。
彼女と家庭を築きたい。
彼女を守りたい。
一緒に幸せになりたい。
そんな気持ちも確かにあった。
しかし、その奥には別の感情があった。
彼女を誰にも渡したくない。
逃げられない形にしておきたい。
あの男に二度と近づけない存在にしたい。
私は結婚を、二人で幸せになるための約束ではなく、彼女を自分のそばにつなぎ止めるための仕組みとして見始めていたのかもしれない。
さらに、私の心にはもう一つ、消えない感情が残っていた。
あのフィリピン人の男への怒りだった。
ホテルの部屋で、レイナがビデオ通話をしていた男。
私が日本にいる間、彼女と連絡を取っていた男。
私たちの関係に入り込み、私の存在を無視するように彼女と話していた男。
あの男の顔を思い出すたびに、腹の底から怒りが込み上げてきた。
私から彼女を奪おうとした。
私が築いてきたものを壊そうとした。
私を馬鹿にした。
当時の私は、そう思い込んでいた。
だから、彼女とやり直した時、心の中で思った。
私は、あの男に勝ったのだと。
彼女は最終的に私を選んだ。
あの男ではなく、私のもとへ戻ってきた。
自分が勝者で、あの男が敗者だと考えていた。
だが、それだけでは足りなかった。
私は、あの男にも分からせたかった。
レイナは私のところへ戻った。
私たちは今も一緒にいる。
お前が入る場所は、もうどこにもない。
それを見せつけたかった。
私はレイナと一緒にいる様子を、意識的にSNSへ上げるようになった。
二人で食事をしている動画。
隣に座って笑っている姿。
一緒に出かけた時の映像。
何気ない恋人同士の記録に見えるように投稿した。
しかし、本当の目的は別のところにあった。
あの男に見せるためだった。
レイナが私と一緒にいるところを見せつけたかった。
彼女が私を選んだという事実を、あの男の目に焼きつけたかった。
投稿する前には、あの男が見る可能性を考えた。
この動画なら悔しがるだろうか。
これを見れば、自分が負けたと分かるだろうか。
私はそんなことばかり考えていた。
時には、わざと二人の関係が親密に見える動画を選んだ。
レイナが私の肩に寄りかかっている場面。
笑いながら顔を近づけている様子。
まるで何事もなかったかのように、幸せそうに過ごしている二人の姿。
投稿したあと、私は何度も閲覧履歴や反応を確認した。
あの男が見ているのではないか。
どこかで悔しい思いをしているのではないか。
私は、レイナとの時間を楽しむよりも、あの男がどう感じるかを気にしていた。
それは、恋人との幸せな思い出を残すための動画ではなかった。
私なりの復讐だった。
言葉で責めることも、直接会うこともできない。
だから私は、自分たちの幸せそうな姿を見せることで、あの男を傷つけようとしていた。
彼女は私のものだ。
お前には渡さない。
最後に選ばれたのは私だ。
動画を通して、私はそう叫んでいたのだと思う。
そして私は、結婚すれば、あの男に完全に勝てると考えていた。
恋人ではなく、夫婦になる。
彼女は私の妻になる。
それを見せれば、あの男は何も言えなくなる。
私が味わった屈辱を、今度はあの男に返せる。
結婚には、そんな復讐の意味まで重ねていた。
だが、本当にあの男に勝ちたかったのかと問われれば、今では分からない。
私はただ、自分が傷つけられたことを認めたくなかっただけなのかもしれない。
あの夜、彼女が別の男と楽しそうに話していた姿が、私の中に深い傷を残していた。
その傷を隠すために、私は恋愛を勝ち負けに置き換えた。
自分が選ばれたと思えば、傷ついた自尊心を守ることができた。
結婚すれば完全に勝てる。
彼女を妻にすれば、あの男はもう何もできない。
夫婦になれば、彼女は離れない。
当時の私は、本気でそう思っていた。
しかし、後になって、私は別の見方をするようになった。
正直に言えば、今考えると、あの男もまた彼女に利用された一人だったのかもしれない。
当時の私は、あの男を心の底から憎んでいた。
私たちの関係に入り込んだ男。
彼女を奪おうとした男。
私を傷つけ、苦しませた相手。
私はずっと、そう思っていた。
だが、後になって彼女のメールやメッセージをいろいろ見る機会があった。
そこで私は、意外なことに気づいた。
あの男から彼女へ送られた言葉は、いくつも残っていた。
会いたいという言葉。
好きだという言葉。
彼女を気遣う言葉。
彼女との未来を期待するような言葉。
しかし、彼女からあの男へ送られた、はっきりとした愛情の言葉は、ほとんど見つからなかった。
少なくとも、私が見た範囲では、彼女から積極的に愛を伝えているようなメッセージは一つもなかった。
あの男だけが、彼女を信じ、彼女を求め、彼女との関係に期待していたように見えた。
それを見た時、私は初めて思った。
もしかすると、あの男も本気だったのではないか。
彼女の言葉を信じ、いつか自分のところへ来ると思っていたのではないか。
もしそうなら、あの男もまた、私と同じように彼女に振り回されていたことになる。
私があれほど憎んだ男は、私から彼女を奪った男ではなかったのかもしれない。
私への怒りや復讐のために使われた、哀れな男だったのかもしれない。
彼女は、私との関係が壊れていた時、あの男と連絡を取り続けた。
私に見つかれば、私が傷つくことも分かっていたはずだ。
それでも彼女はやめなかった。
そして、私とやり直すことを決めた瞬間、今度はあの男をいとも簡単に切り捨てた。
あれほど連絡を取り合っていたはずなのに、何事もなかったかのように私のもとへ戻ってきた。
その時の私は、それを自分が選ばれた証だと思っていた。
しかし今考えれば、違っていたのかもしれない。
彼女は私を選んだのではない。
その時、自分にとって必要なほうへ戻っただけだったのかもしれない。
寂しい時には誰かを求める。
怒った時には誰かを使う。
不安になれば、自分を満たしてくれる相手に近づく。
安心できる場所が見つかれば、それまでそばにいた相手を簡単に切り捨てる。
少なくとも、私にはそう見えた。
そして、その背景には、彼女が生きてきた環境もあったのだと思う。
貧しさ。
十分な教育を受けられなかったこと。
明日の生活をどうするかで精いっぱいだった経験。
目の前にあるものを逃せば、次はないかもしれないという恐怖。
そうしたものが、彼女の考え方の奥に深く染みついていたように思う。
もちろん、貧しいから人を裏切るわけではない。
教育を受けていないから、他人を傷つけるとも限らない。
同じような環境で育っても、誠実に生きる人はいくらでもいる。
だから、彼女の行動をすべて環境のせいにするつもりはない。
ただ、後になって振り返ると、彼女の言葉や行動の端々には、その背景が隠しきれずに表れていた。
物事を長い目で考えるより、その瞬間に自分が楽になるほうを選ぶ。
相手の立場を想像するより、自分が損をしないことを優先する。
感情を抑え、話し合い、相手の言葉を理解しようとするより、自分の思いどおりにならない相手を責める。
都合が悪くなれば、事実よりも自分の感情を正しいものとして押し通す。
その姿には、学ぶ機会の少なさや、考え方の幅の狭さが表れていたように思う。
当時の私は、それを文化の違いだと思おうとしていた。
言葉が違うから伝わらない。
育った国が違うから、価値観が違う。
時間をかければ分かり合える。
愛していれば、いつか理解してくれる。
私はそう自分に言い聞かせていた。
だが、違いは言葉だけではなかった。
相手の気持ちを想像する力。
自分の行動が他人にどんな影響を与えるかを考える力。
感情と事実を分けて考える力。
不満があっても、すぐに相手を攻撃せず、話し合おうとする力。
そうしたものが、私と彼女の間では大きく違っていた。
私は説明すれば分かってもらえると思っていた。
しかし、彼女にとっては、自分がそう感じたこと自体が事実だった。
一度疑えば、疑った自分が正しい。
一度怒れば、怒らせた相手が悪い。
自分が傷つけば、相手を傷つけ返してもいい。
そうした考え方が、彼女の中にはあったように感じられた。
今思えば、そこには彼女の未熟さが露呈していた。
そして、その未熟さの奥には、貧しさや教養を身につける機会の少なさが影を落としていたのだと思う。
私は彼女を責めながらも、その背景を理解しようとしていた。
仕方がない。
彼女は苦しい環境で育った。
誰にも教えてもらえなかった。
愛し方も、信じ方も、話し合い方も知らないだけだ。
自分が教えればいい。
自分が支えればいい。
日本へ連れて行けば変わる。
安定した生活を与えれば、穏やかな人になる。
私はそう考えた。
しかし、その考えには大きな間違いがあった。
私は彼女を愛していたつもりで、いつの間にか彼女を救おうとしていた。
そして、救えば自分の思うような人間に変わると期待していた。
貧しさから救えば、感謝する。
安心できる家を与えれば、疑わなくなる。
妻という立場を与えれば、離れなくなる。
しかし、人は住む場所を変えただけでは変わらない。
お金を与えただけでも変わらない。
結婚しただけでも変わらない。
自分の過ちを認め、自分自身で変わろうとしなければ、何も変わらない。
その当たり前のことを、当時の私は分かっていなかった。
私は、彼女の問題を愛情で解決できると思っていた。
自分の経済力で埋められると思っていた。
日本の生活を見せれば、価値観も変わると思っていた。
それは彼女を理解していたのではない。
自分に都合のいい未来を信じていただけだった。
あの男への態度も、後になって見れば、その場その場で自分の感情を満たすために人を使っているように見えた。
あの男に対しても、私に対しても、相手の気持ちより自分の感情を優先していた。
あの男は、彼女を本気で信じていたのかもしれない。
しかし、彼女は私とやり直すことを決めた瞬間、彼を簡単に切り捨てた。
その事実に気づいた時、私は恐ろしくなった。
人をあれほど簡単に裏切れる人間が、私だけは裏切らないと、なぜ信じていたのだろう。
彼女はあの男を簡単に裏切った。
そして後には、私のことも同じように裏切った。
そのことに気づいたのは、すべてが終わってからだった。
当時の私は、彼女が自分のもとへ戻ってきたことで、愛されていると思っていた。
しかし本当は、彼女にとって私は、安心できる場所の一つにすぎなかったのかもしれない。
必要な時には近づく。
気に入らないことがあれば離れる。
寂しくなれば、また戻る。
その繰り返しの中で、相手がどれほど傷つくかは、彼女にとってあまり重要ではなかったのかもしれない。
今になって思う。
彼女は誰か一人を深く愛するというより、自分がその時に感じている寂しさや不安を埋めるために、人を求めていたのではないか。
私も、あの男も、そのために使われた存在だったのかもしれない。
だからこそ、彼女はあの男を簡単に切り捨てることができた。
そして、後には私のことも簡単に切り捨てることができた。
私は長い間、あの男を憎んでいた。
だが今は、少し違う。
あの男もまた、彼女の言葉を信じた一人の男だった。
彼女に期待し、彼女を待ち、最後には何の説明もなく捨てられた。
そう考えると、憎しみよりも哀れさのほうが先に立つ。
あの男に勝ったと思っていた自分が、今では滑稽にさえ思える。
勝ち負けなど、最初から存在していなかった。
私も彼も、彼女の感情に巻き込まれただけだった。
そして彼女は、最後まで自分のことしか考えていなかった。
少なくとも、すべてが終わった後の私には、そう見えた。
これは、その時には分からなかった。
愛している間は、人は相手の都合の悪い部分を見ようとしない。
自分が選ばれていると信じたい。
自分だけは特別だと思いたい。
だから私は、何度も目の前にあった事実を見逃した。
彼女が人をどのように扱うのか。
必要がなくなった相手を、どれほど簡単に切り捨てるのか。
自分の感情のために、誰かを利用することがあるのか。
そのことに気づいたのは、私自身が同じ目に遭った後だった。
復縁した直後の数日間は、驚くほど穏やかだった。
レイナは優しかった。
私が店へ行く時も笑顔で送り出した。
電話が遅れても怒らなかった。
女性スタッフの話が出ても、何も言わなかった。
私は本当に変わったのだと思った。
別れたことで、彼女も自分の行動を反省したのだ。
今度こそ普通の関係になれる。
そう信じ始めていた。
しかし、その穏やかな時間は長く続かなかった。
最初は小さな変化だった。
私が電話に出るまで数分かかると、声が低くなる。
「誰と話してたの?」
私が店にいると伝えると、すぐにビデオ通話を要求する。
「店を見せて」
「誰が隣にいるの?」
「カメラを回して」
私は従った。
疑われるくらいなら、見せたほうが早い。
安心するなら、それでいい。
そう思っていた。
だが、一度応じると、それは当たり前になった。
電話を切ろうとすると、不機嫌になる。
「どうして切るの?」
「誰かと話したいの?」
「私が邪魔なの?」
眠る時まで電話をつなぎたがった。
夜中に目を覚ますと、画面の向こうから私の様子を確認していることもあった。
私が少し動けば、声がする。
「どこへ行くの?」
「トイレだよ」
「本当に?」
そんな会話が何度も続いた。
私の携帯電話を見ることも増えた。
メッセージ。
写真。
通話履歴。
SNS。
女性の名前が一つでもあれば、その人物について細かく聞かれた。
「誰?」
「いつ知り合ったの?」
「どうして連絡しているの?」
仕事の相手だと説明しても、簡単には納得しない。
私は一つひとつ見せた。
何も隠していないことを証明しようとした。
しかし、証明すればするほど、彼女の確認は細かくなっていった。
やがて私は、自分の携帯電話なのに、彼女に見られて困るものがないかを事前に確認するようになった。
浮気をしていたわけではない。
隠し事もない。
それでも、女性スタッフから業務連絡が来るだけで喧嘩になる可能性があった。
私は名前を変えて登録することまで考えた。
だが、それをすれば、見つかった時にさらに疑われる。
何をしても疑われる。
何もしなくても疑われる。
私は次第に、自分の行動ではなく、レイナがどう受け取るかを基準に生活するようになった。
店へ行く前にも、彼女の機嫌を確認した。
「今日は店に行かないといけない」
その一言を伝えるだけで緊張した。
ある日、店のママが私の肩を軽く叩いた。
「オーナー、お客様が呼んでいます」
それだけのことだった。
しかし、そばにいたレイナの表情が一瞬で変わった。
目が鋭くなり、私とママの手元を交互に見た。
その場では何も言わなかった。
だが、店を出た途端、始まった。
「どうして触らせるの?」
「いつもああなの?」
「あの女はあなたが好きなんじゃないの?」
私は否定した。
「仕事だよ」
「呼びに来ただけだ」
「肩を叩いただけだろう」
しかし、彼女は認めなかった。
「普通は触らない」
「あなたが許しているから触る」
「私を馬鹿にしている」
話はどんどん大きくなった。
私は事実を説明しているだけなのに、気づけば自分が謝っていた。
「もう気をつける」
何を気をつけるのか、自分でも分からなかった。
悪いことは何もしていない。
それでも、その場を収めるために謝るしかなかった。
それから私は、女性スタッフと話す距離まで気にするようになった。
肩を叩かれないように避ける。
隣に座らない。
笑顔を見せすぎない。
店の経営者なのに、自分の店で自然に振る舞えなくなっていった。
スタッフも少しずつ気づき始めていた。
私がレイナの顔色をうかがっていること。
必要な会話さえ短く済ませていること。
以前のように店に長くいなくなったこと。
「最近、店にあまり来ませんね」
そう言われても、理由を説明することはできなかった。
恋人の嫉妬が怖くて、自分の店へ行けない。
そんなことを、経営者である私が簡単に言えるはずもなかった。
私は次第に店を避けるようになった。
店へ行けば喧嘩になる。
女性スタッフと話せば疑われる。
電話に出られなければ怒られる。
仕事よりも、レイナとの問題を起こさないことが優先になっていた。
売上のことを考える時間より、彼女を安心させる方法を考える時間のほうが長くなった。
その時点で、経営者としては終わっていたのだと思う。
それでも私は、レイナを手放さなかった。
むしろ、関係が苦しくなればなるほど、執着は強くなっていった。
ここまで我慢したのだから、幸せにならなければいけない。
これだけ傷ついたのだから、最後には報われなければおかしい。
店も、時間も、お金も使った。
今さら別れれば、そのすべてが無駄になる。
私はそんな考えに縛られていた。
SNSには、幸せそうな二人の姿を上げ続けた。
動画の中では、私たちは笑っていた。
寄り添っていた。
仲のいい恋人同士に見えた。
しかし、撮影が終われば、また疑いと喧嘩が始まった。
投稿された映像と、現実の二人は、少しずつ離れていった。
それでも私は動画を消さなかった。
あの男に負けたと思われたくなかった。
周囲に、自分の選択が間違いだったと思われたくなかった。
これだけ幸せそうな姿を見せたのだから、もう別れるわけにはいかない。
私は、自分で作った「幸せな二人」という映像にまで縛られていった。
そして、いつしか一つの答えに逃げ込むようになった。
結婚すれば変わる。
夫婦になれば、彼女は安心する。
正式な妻になれば、もうほかの男を疑う必要もなくなる。
日本で二人だけで暮らせば、すべてが落ち着く。
安定した生活を与えれば、彼女の中にある不安も消える。
日本の暮らしを知れば、考え方も変わる。
私は、その考えに希望を抱いた。
しかし、それは希望ではなかった。
追い詰められた私が、現実から逃げるために作り出した最後の理屈だった。
私は彼女を救えば、彼女は変わると思っていた。
彼女を妻にすれば、離れなくなると思っていた。
あの男に勝てると思っていた。
そして、自分が失ったものも、すべて取り戻せると思っていた。
だが、その時の私はまだ知らなかった。
人は結婚したから変わるのではない。
国が変わったから変わるのでもない。
貧しさから抜け出しただけで、人の内側にある考え方まで一瞬で変わるわけでもない。
愛情だけで、教養や思考の癖や人との向き合い方まで変えることはできない。
私はその当たり前の事実を理解しないまま、結婚という最後の賭けへ進もうとしていた。
そして、その賭けが、自分の人生をさらに深く壊すことになるとは、この時の私はまだ想像もしていなかった。
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