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フィリピンの歴史 ホセ・リサールの生涯と民主化運動に揺れるフィリピン


今回はフィリピン民主主義のカリスマ、ホセ・リサールの生涯について書いてい行きたいと思います。

ホセ・リサールの少年時代

ホセ・リサールは、1861年にマニラ南西のラグナ州カランバでドミニコ会の所有する農園のインキリノ(借地人)の父フラシスコ・メルカードと母テオドラ・アロンソの間に11人兄弟の次男として生まれました。父のフランシスコ・メルカードの家系は、中国人とマレー人の血が混ざっており、母テオドラ・アロンソの家系は、スペイン人と日本人の血が混ざっていました。兄のパシアノはゴンブルサ事件で処刑されたブルゴス神父を先生として教えを受けていました。リサールが幼いころに、母のテオドラが、自身の弟の妻を殺害しようとしたという、無実の罪を着せられて2年間投獄されてしまいます。テオドラの弟の妻がスペイン人軍人と浮気をしており、夫とその姉が邪魔となり、でっち上げて告発したようです。メルカード家が修道会と植民地政府の搾取に対して批判的であり従順ではなかったことも災いしました。テオドラがスペイン人とフィリピン人を自宅に招いたときに同じテーブルに座らせたことも原因になったといわれています。この事件はリサールの将来への影響を与えたといわれています。リサールは小さいころからとても賢く、語学の才能に恵まれて、8歳の時にはタガログ語とスペイン語をマスターします。初等教育を終えると、1877年16歳の時にアテネオ学院に入学して農学と土地測量の技術を学びます。そして母テオドラが失明の危機に陥ると当時のフィリピン最高学府であるドミニコ会経営のサント・トマス大学で医師を志して医学を学びます。しかしリサールは大学でフィリピン人であることからドミニコ会教師の差別を受けます。差別を受けながらも、リサールはスペイン人とフィリピン人の間には、人間的な違いはなく、違いがあるのは教育の機会だけと考えました。教育を通じてフィリピンをスペインの奴隷的な地位から引き上げることがリサールの生涯の目的となりました。

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ホセ・リサール留学

1821年20歳の時に、医学部を修了した後、父の反対を押し切り、スペイン国立マドリード大学に留学します。マドリード大学では、医学部と哲文学部の両学部に入学します。そこで語学を猛勉強した結果、スペイン語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語、カタルーニャ語、中国語、英語、ロシア語、ラテン語、サンスクリット語、ギリシャ語、ヘブライ語などのたくさんの言語を話せるようになりました。加えて、中国語、日本語、タガログ語、ビサイヤ語、イロカノ語などの研究もしていました。1885年6月、24歳の時に医学士、哲文学博士の学位を習得してマドリード大学を卒業します。その後、フランスのパリ大学でフランス語と眼科学を学び、1886年2月から1887年5月までドイツのベルリン大学などのいくつかの大学で引き続き医学とこれに加えて社会学を学びました。ドイツでは社会学の論文を認められて、ドイツ国籍の習得も薦められますが、祖国フィリピン国籍に誇りを持っていたリサールはこれを断ります。1887年にはリサールは、ベルリンで「ノリ・メ・タンヘレ」(私に触れるな)を出版します。ノリ・メ・タンヘレではフィリピンをガンで苦しむ人に例えてスペインと修道会の支配を痛烈に批判しました。その後、多くの学問を納めたリサールは、1887年8月にフィリピンに帰国します。フィリピン帰国後は、カランバでしばらくは眼科医として働いていました。

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ホセ・リサールの一時帰国

当時のフィリピンでは、修道会の搾取に反発する人々が反修道会運動を展開していました。リサールが帰国したころの1887年になるとマニラには植民地行政の改革を支持するスペイン政府の官僚がフィリピン総督府高官として派遣されてきました。反修道士運動は、これら改革派の総督府高官の協力を得てますます過激になりました。しかし、彼らが修道士に加えて大司教追放のデモを行ったことで、スペイン官吏の反発を買って、反修道会運動は一転して危険思想とみなされることとなりました。リサールは消極的ではありますが、当時の総督テレロ(在任期間1885-1888)に支持されていました。この動きにはフリーメーソンの影響が大きくかかわっていました。リサールを理解していたテレロ総督もフリーメーソンのメンバーでありました。しかし、ノリ・メ・タンヘレが反植民地的だとスペイン植民地支配層から問題にされて、リサールは身の危険を感じたためにテレロ総督の自主的な国外退去の勧めも受けて、1888年27歳の時に再び留学へ旅立ちます。

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2度目の留学

2回目の留学の目的地は同じくヨーロッパでしたが、日本とアメリカ合衆国を経由して向かいました。日本には1888年2月から4月までの約2か月近く滞在しました。日本には元々、船の乗り換え地として2日ほどの滞在予定でしたが、滞在先の近くに住む、白井勢似子(しらいせいこ以下おせい)という女性と親しくなり、滞在は2か月近くに伸びました。リサールとおせいは、2人で歌舞伎の見物や日光や箱根に旅行に出かけたりと、日本でプラトニックラブな一時を過ごしたようです。リサールは生前、おせいの事を誰にも話しませんでしたが、リサールの死後に遺族が遺品を整理した時、おせいの写真が発見され、日記には、「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と書かれていたのが見つかったことで明るみになりました。1888年4月におせいと別れて日本を後にして乗船したサンフランシスコ行きの船の中で、後の日本の衆議院議員となる末広鉄腸(すえひろてっちょう)と出会い、意気投合します。日本の滞在で少し日本語が話せるようになっていたリサールは,英語が話せなかった鉄腸を通訳して助けていたようです。1888年4月28日にアメリカへ到着後も同年5月にロンドンで別れるまで2人は行動を共にしていたようです。末広徹腸はその後、1891年にリサールをモデルとした主人公が日本人の助けを借りて、スペインからフィリピンの独立を戦う政治小説、南洋之大波乱を出版することとなります。ロンドン到着後のリサールは、イギリス、ベルギー、パリの図書館を通いながら、植民地以前のフィリピンの歴史を研究していました。日本の民謡さるかに合戦とフィリピンの民話、さるかめ合戦を比較した論文も出しています。その後、1891年9月18日にベルギーで「エル・フィリブステリスモ」を発表します。1896年にフィリピン革命を起こしたアンドレス・ボニファシオは、それを読んだ後に革命を決意することとなりました。エル・フィリブステリスモの出版後、リサールは1891年10月にフランスのマルセイユを出発してフィリピン帰国しようとしましたが、帰国できず香港で眼科医を開業しました。

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ホセ・リサールの死へ

このころフィリピンでは小さな希望も生まれていました。フィリピンをスペインに引き止めておくために改革が必要だと唱えていたユーロヒオ・デスプホル総督(任期1891-1893)の登場です。リサールは香港からデスプホル総督に3度も手紙を出して1892年6月26日31歳の時についにマニラ上陸を許されました。彼は到着の日とその翌日に2回にわたり、このリサールに好意的な総督と会見しています。総督の在任中にラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)を結成させるのがリサールの目的でした。7月3日にマニラ市内の友人の自宅でフィリピン同盟を正式に結成します。その結成の集会にはボニファシオも参加しています。フィリピン同盟は改革を目指していても平和的であり、革命や武力蜂起は目指していない団体でした。しかし、修道会やスペイン人の保守層から激しい敵意を向けられているリサールをかばうことは、改革派のデスプホル総督にも限界はありました。総督はリサールの監視を強め、7月6日に3回目の会見の後にリサールを突然逮捕しました。リサールと一緒に帰国した妹の荷物の中から修道会の不正蓄財を糾弾するビラが見つかったことが逮捕の理由といわれています。同年1892年7月7日にリサールは、ミンダナオ島ダピタンに追放されました。デスプホル総督が手を尽くして追放刑にとどめたといわれています。リサールが追放されたまさにその日の1892年7月7日にボニファシオを中心とした革命集団がトンドでカティプナンを組織しました。しかしながら、スペイン植民地の枠組みの中での改革を目指したフィリピン同盟と革命とスペインからの独立を目指したカティプナンには大きな違いがありました。ミンダナオ島ダピタンに追放されたリサールは、現地で眼科医院を開く傍ら、土地の子供たちを集めて学校を作り、教育と労働による祖国の再建を一人で実践していました。また、リサールはヨーロッパの学者からの依頼に応じてミンダナオの地質、昆虫、動物の研究を残しました。このころまでにリサールは、20数言語を習得したといわれています。ダピタンに追放されて4年後の1896年7月30日にリサールが35歳の時にかねてより出していたキューバ派遣スペイン軍の軍医としての従軍許可が下り追放が解けてキューバへ向かうこととなりました。マニラに到着した後、船に乗りリサールは本国スペインに向かっていましたが、1896年9月28日に船の船長に呼び出されて、スペインのバルセロナ到着後に逮捕されると通達されました。そして再びマニラに戻されたリサールは、サンチャゴ要塞の牢獄に収監されました。1896年8月29日にカティプナンが起こしたフィリピン革命の関与を疑われたためでした。そして事態はさらに悪化します。リサールを側面から支援していた、ブランコ総督(任期1893- 1896)が解任されてしまったのです。リサールをダピタンの流刑にして救ったデスプホル総督に続いてリサールは理解者を失いました。リサールはボニファシオ率いる革命軍とは無関係であると主張しましたが、受け入れられず、リサールの著作が反スペイン的である非合法組織リガの結成、革命軍の反乱を扇動したとして軍法会議で死刑を求刑されます。1896年12月26日に死刑宣告が下されます。そしてリサールは12月30日に死刑を執行されます。死の前夜に書かれた「最後の別れ」という愛国的な長編詩を遺作としました。ホセ・リサールは、その死後のアメリカの統治時代に、国民的英雄としての地位を与えられました。小学校の庭には銅像が建てられ、その名を冠した州や町が生まれ、リサールを神の化身として信仰の対象とする宗教団体も生まれました。多くの民族主義者の中で、リサールがこのような地位を得ているのは、彼が急進的な革命家であるよりは、斬新的改良主義者であることが、アメリカ政府にとって好都合であったからだという見方もあります。しかしリサールは、フィリピン革命を起こしたボニファシオ、アギナルドに大きな思想的影響を与え、フィリピン民族主義の盛り上がりに大きく貢献をしました。武力で対抗するのではなく、文筆によって、スペイン支配による諸問題を告発しました。リサールの著作は近代フィリピン文学最高の作品とされています。以上が今回のホセリサールの生涯と民主化運動に揺れるフィリピンでした!!次回は、ボニファシオらのカティプナンによるフィリピン革命とアメリカによる支配について取り上げてきます。

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参考文献

Wikipedia 世界史の窓 フィリピンの事典 石井米雄監修 同朋舎 物語フィリピンの歴史「盗まれた楽園と抵抗の500年」 鈴木静著 中公新書

関係用語一覧

フリーメーソン

もともとは、ヨーロッパの巨大な教会堂や宮殿などの石造建築物造営に関わったメーソン(石工たちが)、先端技術の保存や 移転、同業者たちの相互扶助や友好を深めるための秘密組織作ったことが起源となります。一八世紀初めイギリスで結成された、博愛・自由・平等の実現を目指す世界的規模の団体です。社会的に地位の高い人たちで構成されている秘密結社です。彼らは欧州やヨーロッパで、頑ななカトリックのドグマや保守主義と闘い、君主制ではなく共和制、一神論ではなく汎神論、自由思想を唱道してきました。このため、18世紀以降の欧州とアメリカでの政治運動や、スペイン植民地体制の解体にはフリーメーソンが深くかかわっているとされています。フィリピン人によるフリーメーソンの活動は、スペインロッジ(支部)の支援でより大胆になっていきました。1892年に最初のフィリピンロッジ「ニラッド」も設立されました。

ミゲル・モライタ・サグラリオ

マドリード・セントラル大学教授であり、フリーメーソンと関わりのある人物である。リサールは1884年にモライタの受講生でリサールは、これ以降にフリーメーソンに所属したと思われます。

在族司祭

修道会ではなく通常の教会に所属する聖職者のことをさします。

フィリピン革命

当初はスペインに対して、その後アメリカに対して行われたフィリピン民衆の独立闘争です。1896年8月カティプナン蜂起に始まります。

フィリピン同盟

リサールによって1892年7月にリサールによって設立された市民団体です。会長はアンブロシオ・サルバドル。スペイン当局はこれを政治団体として危険視してフィリピン同盟の設立の数日後、リサールを逮捕してミンダナオ島のダピタンに追放しました。

デル・ピラール

リサールの兄、パシアノと同じサン・ホセ学院出身でブルゴス神父を知っていました。サントマス大学を1880年卒業後、1882年にスペイン語・フィリピン語で書かれたタガログ新聞を発刊。反修道士運動も展開していました。

 カランバ事件

1896年に始まるフィリピン革命に先立つフィリピン植民地支配の抵抗事件の一つ。ホセリサールの郷里ラグナ州カランバにあるドミニコ会農園のインキリノ(借地人)たちは、修道会の不当な地代の値上げなどの搾取に対して訴えを起こした。しかし、裁判所は修道会側を支持して、1891年に借地人追放の判決を下ました。政府は抵抗するカランバの借地人たちに対して軍隊を投入、彼らを追放して家屋を焼き払いました。結局、リサールの父と3人の妹を含む25人の流刑が宣告されました。

ノリ・メ・タンヘレ

1872年のゴンブルサ事件を契機として書かれました。作中、登場人物のイバラに武力革命反対を説かせ、別の登場人物のエリアスにそれを反論させています。フィリピンの改革と革命は両論併記の形で結論はまだ出されていません。

エル・フェリブステリスモ

前作ノリ・メ・タンヘレの続編。本作は革命路線は最初から強い線で書かれ、登場人物イバラがはっきり武力革命を肯定しています。スペインによるフィリピン支配の矛盾はその後約20年間でさらに激化して、武力革命によらない限り、問題の解決があり得ないことを暗に示していたといえます。

中国系メスティーソ

中国系メスティーソは勤勉さと商業的才覚で19世紀中ごろまでにはフィリピン社会で中産階級の位置を占めました。この経済的成功は、やがてメスティーソ子弟の教育に反映されることになりました。

フィリピンの高等教育の始まり

1863年までは教会付属の司祭館か、小さな私立学校で行われてきました。しかし、この年にはじめて公教育が開始されました。1860年代末には原住民と中国系メスティーソのうち、少数ではありましたが、レトラン、サン・ホセ、サント・トマスなどの専門学校や大学に進学するものが出てきました。1870年代になると、マニラの大学だけではなく、母国のスペインやフランス、英国、オーストリア、ドイツに子弟を送り出すようになった。注目すべき点は、これらの海外留学生の大半が、中国系メスティーソであったことです。

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