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征服者レガスピによるフィリピンの征服 1564年~征服の始まり~


今回は、マゼランが1521年にフィリピンのマクタン島で戦死してからの40数年後のフィリピンが舞台となります。スペイン人のミゲル・ロペス・デ・レガスピという人物によってフィリピンは1565年からスペインの支配下に置かれていきます。スペインによる333年に及ぶフィリピン支配の始まりです。

ビリャボロスのフィリピン命名~フィリピンと名付けた男~

ビリャロボス

ビリャロボス

マゼランのフィリピン到達から1565年のレガスピのセブ入港の間にスペインの成果は今一つでしたが、4度も遠征隊を派遣しています。そのうちの一つのビリャロボス率いる遠征隊は、1542年にルソン島、サマール島、レイテ島に到達しました。そしてこれらの諸島を後のスペイン王フェリペ2世に因んで「ラス・イスラス・フェリピナス」と名付けました。これがフィリピンの名の由来となります。しかしビリャロボスの遠征隊は、飢餓・船の難破・原住民の抵抗によりフィリピンのそれ以上の探検と植民地化ができませんでした。

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レガスピの登場~征服の始まり~

その後、フィリピンを初めて植民地として征服した人物はレガスピといいます。このレガスピはスペイン領メキシコ政府の地位の高い役人で、スペイン領メキシコのスペイン副王の命令を受け、現地でのキリスト教布教のために修道士と4隻の船を率いて1564年11月21日、メキシコの太平洋岸の港を出発しました。レガスピ艦隊はサマール島を通りボホール島に到着。現地の王様と血の盟約を結びます。目的地はかつてマゼランがキリスト教の布教を行ったセブ島でした。

血の盟約・・・フィリピンの伝統儀式で、親交や約束を強化するために互いの手を切り、血を器に入れてワインなどと混ぜて飲むという痛そうな儀式です(;’∀’)

セブ島到着~征服者の再来襲!~

レガスピ艦隊は1565年4月27日にセブ島へ到着。メキシコ政府へのレガスピの報告によると、上陸前のセブ島では2000人の兵士が戦闘の用意を整え待ち構えてましたが、レガスピ艦隊が大砲を撃ちかけると人々はどっと山へ逃げ込んだといいます。その後、セブに上陸したレガスピ艦隊はかつてマゼランが当時の先代のセブ王の妻に渡したとされる幼子のイエス像を偶然発見します。そしてその後、セブ王や周辺の他の王たちと平和友好条約を結びます。この1565年に結んだ平和友好条約はセブに完全なスペインの主権を樹立して原住民にスペイン国王の服属を要求したものです。つまりセブはスペイン領ということになります。また、原住民側にはスペイン人の裁判権は一切なく、スペイン人への反抗は国王に対する反逆と規定されました。これはスペイン人が現地の人、原住民に対して殺人や強盗、強姦を起こしても原住民が裁判にかけれないということですね。そしてスペイン人に対する反抗は反逆だとも書いてますから、スペイン人には何も文句もいえないわけですね。ここから333年に及ぶスペインの長いフィリピン支配がはじまります。

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レガスピの転進とマニラ征服隊~進む植民地化~

こうしてセブ島は順調にスペインの植民地化が進むと思われましたが、1568年9月30日に突然ポルトガル船が7隻もスペインセブに入港してきました。この7隻のポルトガル船の責任者はレガスピに「ここはポルトガル領である出ていけ」と要求をしました。なんでポルトガルがセブの領有主張していたかというと、スペインとポルトガルは東と西で世界を分割しようという真に自分勝手な条約を結んでいました。この条約はトルデリシャス条約サラゴサ条約といいます。これによるとフィリピンはポルトガルの領土に入るわけです。それでポルトガルはこう主張したのです。突然のポルトガル艦隊の横やりによりレガスピ艦隊はセブの北西約200キロのパナイ島への転進を決めました。そして1570年にレガスピの部下デ・ゴイチを隊長するマニラ征服隊がマニラへと向かいました。支配地域を広げようとしたんですね。当時のマニラはブルネイの影響下にあるスライマンという王が統治するイスラム教徒の王国の中心地でした。マニラはパシグ川南岸に作られた要塞都市で大砲を備えた砦が築かれ内部に町がありました。外国との貿易で賑わっていて中国人の華僑も住んでいたようです。すでに国際都市ですね!

マニラ陥落~平和な楽園の終わり~

さて、マニラに到着したデ・ゴイチ率いるマニラ征服隊とスライマン王は当初は血の盟約を行い敵対しないことを確認し合いました。しかしスペイン側の報告によると5月24日原住民たちは突如、スペイン側の船めがけて砲撃を開始して両軍は戦闘状態に突入します。スペイン側は要塞に突入して、大砲を奪い街を焼き払いました。スライマン王側はパシグ川の川向こうのトンド地区に敗走します。こうしてマニラは陥落してしまいました。しかしスペイン側はマニラにはとどまらずに、パナイ島へ引き上げていきました。



植民地支配の始まり~マニラ市の誕生~

1571年5月16日、レガスピ率いる本隊が230人のスペイン兵と600人以上の原住民傭兵を乗せた20数隻の艦隊でマニラに再入港します。ここからスペインによるマニラ市が誕生します。その後、ミゲル・ロペス・デ・レガスピはマニラに市役所、市議会を設置してマニラ支配を進めます。植民都市としての形を整備した後に、マニラ北方ナボータスの反スペイン勢力やルソン島各地にあった地方勢力を倒してルソン島を平定します。こうしてレガスピはスペインのこの新しい植民地の初代総督として君臨することとなります。総督となったレガスピは原住民からの税の徴収とキリスト教布教を進めるためにエンコミエンダ制度いう制度を敷きます。

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暴力による支配~エンコミエンダ制度~

エンコミエンダ制度とはフィリピンの植民地化に功績があったスペイン人に土地と原住民を委託するという制度です。委託されたスペイン人たちの多くは原住民を低賃金で武力で脅して奴隷のように働かせて私腹を肥やしていたそうです。新大陸やアジアにやってきたスペイン人・ポルトガル人などのヨーロッパ人は本国で食い潰れた気の荒いチンピラ気質の連中が多かったんですよね(-_-;)アメリカ大陸を発見したコロンブスもその時の航海で、囚人や無法者をかき集めて水夫としたといわれています。そんな反社気質の侵略者たちにフィリピンの人たちは牛馬の様に使われて働かせられるわけですね。この悲惨なエンコミエンダ制度をフィリピンに敷いたレガスピは1572年マニラで心不全によって死去します。

征服者レガスピの死~懐事情は楽じゃなかった?~

レガスピは征服活動の間、個人資産のほとんどをそのために使ったため、貧困と破産のうちに亡くなり、わずか数ペソしか遺さなかったそうです。基本的に征服者というのは本国から給料とかでないですからね。報酬は征服した土地から現地調達といった感じですね。調達されるフィリピンの人たちはたまったもんじゃないですけどね(-_-;)

レガスピ死後もスペインから独立を保った国

このレガスピの死までに、フィリピンを構成する三大地域(ルソン島周辺・ビサヤ諸島・ミンダナオ島周辺)のうち、ミンダナオ島南部以外は、ほとんどスペインの支配下に入っていきました。しかし、レガスピの死後もスペインからの独立を保った国もありました。

マギンダナオ王国

ミンダナオ島西部にあったイスラム教国。16世紀にミンダナオ島に勢力をもち、マラウィを首都としてスペイン人による植民地支配を退けてきたが、19世紀にスペインに征服されます。

スールー王国

スールー諸島に存在したイスラム教国。スペイン支配時代を通して独立を守りますが、1898年にアメリカ植民地時代のフィリピンに征服されます。

スペイン植民地時代のフィリピンと日本とのかかわり

マニラ市設置当時のマニラには日本人も20人ほど住んでいたとの記録もあります。また、1591年には、当時の日本の支配者であった豊臣秀吉が、長崎で貿易を営む商人原田喜右衛門の部下である原田孫七郎を使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピン総督の下へ派遣しました。1592年には、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれ日本人がスペイン商人を相手とする通商が発展していきました。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町が作られました。マニラ市設置当初には20人ほどだった日本人居住者も17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなりました。日本では有名なクリスチャン大名の高山右近も日本追放によってマニラを訪れ、当時のフィリピン総督らが歓迎しています。しかし、1633年から順次施行された日本の鎖国令によって、これらの都市は衰えます。この後、サルセド総督統治時代のフィリピンを日本の川淵久左衛門が訪れており、1671年の口述筆記『呂宋覚書』として残されています。



マゼラン最後の1か月

参考文献:

鈴木 静夫早瀬 晋三

フィリピンの事典 (同朋舎出版) 

鈴木 静夫 

フィリピンの歴史「盗まれた楽園」と抵抗の500 (中公新書)

wikipedia

柳沼 孝一郎 

神田外語大学紀要24巻 P203-P223

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