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フィリピンを見つけた男・マゼランの最後の1か月間 フィリピン人なら知らない人はいない


今回はフィリピンの歴史についての記事です。初めてフィリピンに到達したポルトガル人の航海家フェルディナンド・マゼランが、フィリピンに到達して現地で戦死するまでの最後の1か月間について取り上げていきます。

フェルディナンド・マゼラン

マゼラン(1480-1521)は、大航海時代を代表する航海家です。彼が生きた時代のヨーロッパは、当時の2大強国であるスペインとポルトガルが世界の覇権を巡り争っていました。(大航海時代)1480年ごろにポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族の子として生まれました。1492年12歳の時に、ポルトガル王妃の小姓としてポルトガルの宮廷に入ります。このポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の業績を知ることになり航海への関心を深めたと言われています。1505年、25歳のマゼランはアルメイダ艦隊に希望して加わり、船乗り・兵士としての経験を積んでいきます。1515年、北アフリカ遠征から帰ったマゼランはポルトガル王に謁見し、その後ポルトガルを去ります。マゼランがポルトガルを去ったのは、小姓時代からポルトガル王と馬が合わなかった、東洋へ派遣される船を指揮を任せてくれるように頼んだが王に拒絶されたからといわれています。その後、マゼランはスペインに仕えるようになります。

フェルディナンド・マゼラン

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マゼランのフィリピン「発見」

1519年、マゼランはスペイン王の命令によって、インドネシアのモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かい、その途中で1521年フィリピンに到達しました。偶然フィリピンを見つけた訳なんですね!マゼランはフィリピンの原住民にキリスト教を布教して、この地をスペインの支配下に置こうとしましたが、これに反発するマクタン島領主のラプラプと闘い戦死してしまいます。

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サマール島発見~セブ島へ

マゼラン率いるマゼラン艦隊は、1519年にスペインを出航してから太西洋・南アメリカ大陸・太平洋を経て1521年3月16日にフィリピンのサマール島を発見します。

サマール島

サマール島

これがフィリピン発見の第一歩になります。翌日3月17日には無人島のサマール島最南端のホモンホン島に上陸します。マゼランと原住民はお互いに物を交換し合い、現地の食料などを得ます。その数日後にレイト島南端沖のリマサワ島で王のコランプと出会います。

リマサワ島

この頃のフィリピンには島ごとに王様が何人もいたようです。そのコランプ王はマレー語を話すことができました。マゼランの奴隷であるマレー人のエンリケも、マレー人なのでマレー語が話せました。そこでマゼランはエンリケを通訳にしてコランプ王と会話が可能になりました。会話で意思疎通ができたからでしょうか、マゼランとコランプ王は親密になり、コランプ王は食料、マゼランは赤と黄色のトルコ服、赤い帽子などを贈りあいます。マゼランとコランプ王はリマサワ島でフィリピン最初のミサをあげ十字架を立てています。さらにコランプは艦隊が補給をするのに最適な地としてセブ島を紹介して案内してくれました。

セブ島

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キリスト教布教

4月7日セブ島に達したマゼランは、まずは大砲を撃ってセブ島民を驚かせ、上陸したマゼランはセブ王が付近の王たちの中でも有力であることを見て熱心に布教を始めます。セブ王をはじめ500人~800人ほどが洗礼を受けました。このことに気を良くしたマゼランは、セブ島周辺の王たちにもキリスト教への改宗と先にキリスト教徒になったセブ王への服従を要求するようになります。キリスト教を利用してセブ王を中心として周辺の王をスペインの支配下に置こうとしたわけですね!!でもこれに対して一人だけマゼランのいうことを聞かないマクタン島の王様がいました。

その名をラプラプといいます。

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マクタン島の討伐

ここでフィリピンの英雄、ラプラプ王の登場です。セブ島に約3週間滞在しセブ王の王宮にもたびたび招かれて食料を補給して、多くのセブ島民を改宗させたマゼランですが、何故か目的のモルッカ諸島へ向かわず布教を続けています。セブ島民を改宗させたことで気をよくしたマゼランは周辺にもキリスト教を広めてスペインの支配下に置いちゃえ!!と思ったからですね。自分たちの武力による脅しが通用すると思ったわけですね。多分、大砲とか火縄銃を恐れてですが、セブ島周辺の王たちのほとんどはマゼランに従いました。しかしマクタン島のラプラプ王は言うことを聞かず、キリスト教にもセブ王への服従にも頑なにNOを突きつけたため、マゼランは怒り、マクタン島の町を焼くこともしています。ひどい人ですね。しかし、これは逆効果でマクタン島民は一層反発を強めてしまいます。その後、マゼランは4月27日マクタン島に突然出撃しました。乗組員のピガフェッタの記録よると、マクタン島のもう一人の王のズラが「マゼランの要求に従う気はあるが、もう一人の王ラプ=ラプが従わないので困っている。小艇に兵を満載して救援に来てほしい」と伝えてきたからだとしています。ムムこれは怪しい!

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60vs1500

ズラ王の救援要請聞いたマゼランは周囲が止めるのも聞かずラプ=ラプ王を従わせようと3隻の小艇に60名の兵を乗せてマクタン島に乗り込みました。これは完全に油断していますね!大砲と火縄銃で楽勝だと思ったのでしょうね(;^ω^)しかし、船は水中に隠れている岩石のため岸まで着けず60名の内11名を小艇の警護に残してたった49人でマゼランたちは上陸します。なぜかラプラプ王はマゼランの動きを事前に察知しており、準備万全で1500人の軍勢を配置していました。ムムおかしいですね。なぜラプラプ王はマゼランの動きを把握していたのでしょうか。もしかしたら、ズラ王の救援要請は罠だったのかも知れません。

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マゼランの死

マゼランは49人という少ない兵にもかかわらず戦闘に突入。これは完全に現地の人をなめてますね!これに対してラプラプ王側は1500人でマゼラン側を向かい打ちます。マゼラン側の船は岸から離れているので大砲は届かない上にラプラプ王側は火縄銃を防ぐために大きい盾で身を隠しながら矢に竹やりに棍棒、石と泥を雨霰と投げつけてきました。これにはマゼラン側もひとたまりもありませでした。30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りには6、7人ほどが踏みとどまって戦うだけになります。しかし多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑には中々通じずに、戦いは1時間に及びました。マゼランここで粘り強く戦います。でも重い鎧をまとって1時間も戦うなんてすごく疲れそうですね(;^ω^)

ですが奮闘むなしくラプ=ラプ王側は防具をつけていない足に攻撃を集中し始め、遂にマゼランは戦死します。ここでマゼランの最後の1か月間は終わりを迎えてしまいます。要はマゼランはフィリピンに来て1か月間しかいなかったんですね。平和的に慎重に原住民とお付き合いしていれば命を長らえたかもしれませんね。その後、マゼラン亡き後の艦隊は奴隷で通訳エンリケによる裏切りでマゼラン後継者などの多数の幹部をセブ王に不意打ちで殺害されるなどの悲劇に見舞われますが、生き残った船員たちは命からがらフィリピンを後にします。その艦隊はマゼランの死後も航行を続け、1522年にスペインに帰国。人類で初めての世界一周に成功しました。

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参考文献:

長南 実 訳 マゼラン 最初の世界一周航海ピガフェッタ「最初の世界周航」トランシルヴァーノ「モルッカ諸島遠征調書」 (岩波文庫)

鈴木 静夫早瀬 晋三 フィリピンの事典 (同朋舎出版) 

鈴木 静夫 フィリピンの歴史「盗まれた楽園」と抵抗の500 (中公新書)

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