歴史

フィリピンの歴史

フィリピンを見つけた男・マゼランの最後の1か月間 フィリピン人なら知らない人はいない

マゼランは49人という少ない兵にもかかわらず戦闘に突入。これは完全に現地の人をなめてますね!これに対してラプラプ王側は1500人でマゼラン側を向かい打ちます。マゼラン側の船は岸から離れているので大砲は届かない上にラプラプ王側は火縄銃を防ぐために大きい盾で身を隠しながら矢に竹やりに棍棒、石と泥を雨霰と投げつけてきました。これにはマゼラン側もひとたまりもありませでした。30倍の数の敵に対しマゼランの兵はやがて敗走、マゼランの周りには6、7人ほどが踏みとどまって戦うだけになります。しかし多勢のラプ=ラプ王の兵の竹槍はマゼランたちの甲冑には中々通じずに、戦いは1時間に及びました。マゼランここで粘り強く戦います。でも重い鎧をまとって1時間も戦うなんてすごく疲れそうですね(;^ω^)
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フィリピンの歴史 ホセ・リサールの生涯と民主化運動に揺れるフィリピン

当時のフィリピンでは、修道会の搾取に反発する人々が反修道会運動を展開していました。リサールが帰国したころの1887年になるとマニラには植民地行政の改革を支持するスペイン政府の官僚がフィリピン総督府高官として派遣されてきました。反修道士運動は、これら改革派の総督府高官の協力を得てますます過激になりました。しかし、彼らが修道士に加えて大司教追放のデモを行ったことで、スペイン官吏の反発を買って、反修道会運動は一転して危険思想とみなされることとなりました。リサールは消極的ではありますが、当時の総督テレロ(在任期間1885-1888)に支持されていました。この動きにはフリーメーソンの影響が大きくかかわっていました。リサールを理解していたテレロ総督もフリーメーソンのメンバーでありました。しかし、ノリ・メ・タンヘレが反植民地的だとスペイン植民地支配層から問題にされて、リサールは身の危険を感じたためにテレロ総督の自主的な国外退去の勧めも受けて、1888年27歳の時に再び留学へ旅立ちます。
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フィリピンにおけるスペイン植民地 333年の歴史 過酷で非常な時代

スペインはフィリピンの植民地化によってフィリピンの原住民社会を破壊します。そしてキリスト教化を進めていきます。このスペイン植民地時代のフィリピンを知るための重要なキーワードとフィリピンの人々がそれに対して起こした著名な反乱などを取り上げていきたいと思います。
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フィリピンの歴史3大偉人で誰が1番の英雄か?ボニファシオ アギナルド ホセ・リサール

アギナルドはリサールより8歳、ボニファシオより6歳若く、1869年3月22日カビテ州に生まれます。プリンシパリーア層出身で父親がカウイト町長であり、アギナルドも若くしてカウイト町長になります。1895年マニラを訪れた時にボニファシオと出会い、秘密結社カティプナンに加入します。1897年テヘロス会議においてボニファシオを失脚に追い込み、革命軍の指導者になりました。その後、各地でスペイン軍と戦い、ビアクナバト協約による停戦受諾後、香港に亡命します。帰国後はアメリカ軍と同盟してスペイン軍と戦い、1898年6月12日カウイトでフィリピン独立を宣言。1898年9月、ブラカン州マロロスで国会を召集し、憲法を制定して、フィリピン第一共和国の初代大統領に就任します。しかし、その後の米比戦争でフィリピン第一共和国は、アメリカに敗北してしまいます。捕らわれたアギナルドは、アメリカに忠誠の誓いを立ててしまいます。その後の第二次世界大戦期には、日本軍に接近するなど日和見的な行動が目立ちます。
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