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フィリピン共和国大統領・第16代 ロドリゴ・ドゥテルテ フィリピンのトランプと言われた男

彼は1945年3月28日に、レイテ島の南のマーシンで弁護士の父親と教師の母親から生まれました。父親ビセンテ・ドゥテルテはダバオ州の知事を務め、マルコス政権の時に内務相にも務めていた。母親は権威主義大統領マルコスを追放し、フィリピンに民主的支配を回復させた「人民権力」運動で重要な役割を果たした活動家でした。彼の祖父は中国人系で彼自身も中国を喋れるわけではないが、聴いて理解が出来るようだ。小さい頃はかなりヤンチャだったと言われ、10代は喧嘩ばかりし、何度も警察のお世話になっており、高校は二回退学になっている。その頃のドゥテルテがどんだけヤンチャか分かるエピソードが有ります。同級生に家柄をからかわれ、学校の廊下で銃を発砲する事件を起こしている。そんなヤンチャな彼でも言いたくない過去が有ったみたいです。彼は未成年の時、司祭によって「性的虐待も受けた」と言って、司祭の名前公表している。ドウテルテは最初の奥さん(エリザベス・ジマーマン)と知り合うまで同性愛者だったと言っています。彼は最初の奥さんと知り合って「同性愛を直した」とも言った。
フィリピーナ恋愛実話

フィリピンパブとKEE第二話「ジュンと私」小説 フィリピン人女性に狂いだす

まだ私はこの先に待ち構えている破滅を知る由もなかった。ジュンにパパと呼ばれた、そのお客さんは2時間程、お店で飲んでいった。ジュンは、濃密な距離でそのお客様との話を楽しんでいる。ジュンの紅潮した顔がかわいい。ジュンからドリンクのオーダーを頼まれた時に、一番遠い距離にいた私だが、まるで走るかのように彼女のもとに向かってしまった。またドアが鳴った。お客さんがまた一人来店。このお客さんも彼女の指名のお客さんだった。その後にもう一人、ジュンのお客さんが来て、その日彼女には、3卓の指名があった。営業が終わると、ジュンは飲みすぎたらしくドレスルームで眠りに落ちていた。そんな彼女に水を飲ませようと私はドレスルームに入り水を飲ませてあげた。この子はいつも酔いつぶれているのだろうか?と思っていた時、私は驚いた。 彼女が、酒臭い黄色の液体を口から出していた。吐いていたのだ。これがジュンとの初めての出会いになる。
フィリピン大食いチャレンジ

超巨大レッチェプランに挑戦しました。KEEの食への執着心(笑) 

1.8キロ&1万カロリーOVER!!今回の企画も全てはEL蔵さんの無茶ぶりから始まります。ある日のこと。EL「KEEちゃんレッチェプラン好きだよね?」KEE「そうですよ(^^」EL「じゃたくさん作ってあげるよ♪」KEE「ありがとうございます ( ^^) 」ということで、2.3人分程度のレッチェプランを作ってくれるものかと思いきや、まさか、卵黄200グラム、コンデンスミルク600グラム、エバミルク600グラム、生クリーム400グラムを加えた総攻撃力1.8キロ&1万カロリーOVERの!!超巨大レッチェプランを用意してくるとは!!そしてこれを早食いする企画に挑戦しろとのこと。
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フィリピンの歴史

フィリピンの歴史 ホセ・リサールの生涯と民主化運動に揺れるフィリピン

当時のフィリピンでは、修道会の搾取に反発する人々が反修道会運動を展開していました。リサールが帰国したころの1887年になるとマニラには植民地行政の改革を支持するスペイン政府の官僚がフィリピン総督府高官として派遣されてきました。反修道士運動は、これら改革派の総督府高官の協力を得てますます過激になりました。しかし、彼らが修道士に加えて大司教追放のデモを行ったことで、スペイン官吏の反発を買って、反修道会運動は一転して危険思想とみなされることとなりました。リサールは消極的ではありますが、当時の総督テレロ(在任期間1885-1888)に支持されていました。この動きにはフリーメーソンの影響が大きくかかわっていました。リサールを理解していたテレロ総督もフリーメーソンのメンバーでありました。しかし、ノリ・メ・タンヘレが反植民地的だとスペイン植民地支配層から問題にされて、リサールは身の危険を感じたためにテレロ総督の自主的な国外退去の勧めも受けて、1888年27歳の時に再び留学へ旅立ちます。
作って食べるフィリピン料理

豚の血を使った栄養満点のスープ!!ディヌグアン 精力つきそう(笑)

さて気になるお味の方は!!豚の血を使っているせいか味に深みがあり、豚バラとの組み合わせが抜群です。今回も本場調にお酢をたくさん入れたので酸味は強めです(^^ただ、モツを入れたのは少し失敗でしたね。あまり、マッチしませんでした(-_-;)でも豚の血を食べれるなんて貴重な経験でした(^^全く臭みもなく食べやすく美味しかったです。
フィリピーナ恋愛実話

フィリピンパブとKEE第一話 フィリピン人との接触(プロローグ)

私は、フィリピンパブでボーイとして働いております。ボーイというのは、キャストとお客様あっての存在。キャストとお客様の過ごす一時のために陰ながら精一杯サービスをご提供する。そんな華やかな夜の世界の黒子なのです。そのボーイである私が、あろうことか、お店のキャストのフィリピーナに熱い慕情を抱くなんて。私の犯したこの罪は許されるのでしょうか。最愛の彼女にはものの見事に、振られましたけどね。フラれてもなお、依然として僕の胸には、熱い何かが渦巻いています。今回からは、私がフィリピンパブで働きながら、あろうことに、お店のフィリピーナに恋に落ちて、フラれるまでのストーリーを恥も外聞もなく書いていこうと思います。
作って食べるフィリピン料理

フィリピンの料理、豚皮を揚げたフィリピンのおつまみ!!チッチャロン

フィリピンでの定番のおつまみである、豚の皮を揚げたスナックの様なチッチャロン(チチャロン)をご紹介します!!チッチャロンは、スペイン、ラテンアメリカ、フィリピンなどのスペインの影響を受けた国や地域で食べられてます。チッチャロンは通常、豚の皮から作られていますが、マトン、チキンやまたは他の肉からも作られることもあります。フィリピンでは、サリサリストア(sari-sari store)などで売られています。また、麺料理のトッピングとしても使われています。ではそんなチッチャロンを作っていきます!!まずは、国産豚皮をスーパーで購入。
フィリピンパブへ潜入

フィリピンパブ潜入レポート⑥パート1 埼玉県川口の名店ラ〇パートナー

今回は埼玉にある名店ラ〇パートナー コロナ渦の影響を受けて時短営業中…駄菓子菓子‼タレント入国中で店内はこの状況でも南国フィリピンそのもの‼客が少ないせいか選びたいほうだ‼ 私は午後4時、いつもの居酒屋絆で、酎ハイ乾杯をしてる時に、私のガラ...
フィリピンの歴史

征服者レガスピによるフィリピンの征服 1564年~征服の始まり~

マニラ市設置当時のマニラには日本人も20人ほど住んでいたとの記録もあります。また、1591年には、当時の日本の支配者であった豊臣秀吉が、長崎で貿易を営む商人原田喜右衛門の部下である原田孫七郎を使者として、スペイン領フィリピンに日本国への朝貢を要求する内容の書状を持ってマニラのスペイン領フィリピン総督の下へ派遣しました。1592年には、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれ日本人がスペイン商人を相手とする通商が発展していきました。貿易に従事する多くの日本人が東南アジアに移り住み各地で日本人町を形成し、フィリピンにもマニラなどに日本人町が作られました。マニラ市設置当初には20人ほどだった日本人居住者も17世紀には1500人、最盛期には3000人にもなりました。日本では有名なクリスチャン大名の高山右近も日本追放によってマニラを訪れ、当時のフィリピン総督らが歓迎しています。しかし、1633年から順次施行された日本の鎖国令によって、これらの都市は衰えます。この後、サルセド総督統治時代のフィリピンを日本の川淵久左衛門が訪れており、1671年の口述筆記『呂宋覚書』として残されています。
フィリピンの歴史

フィリピンにおけるスペイン植民地 333年の歴史 過酷で非常な時代

スペインはフィリピンの植民地化によってフィリピンの原住民社会を破壊します。そしてキリスト教化を進めていきます。このスペイン植民地時代のフィリピンを知るための重要なキーワードとフィリピンの人々がそれに対して起こした著名な反乱などを取り上げていきたいと思います。
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